愛国心シリーズ第2回「甲子園と愛国心」

 

前回「あゆと愛国心」で自然や風土への「愛」がいわゆる「愛国心」の基礎になっているのではないかといったお話をしました。

今回は「甲子園と愛国心」ということで人間社会に踏み込んでみたお話になります。

 

「春はセンバツから」というメッセージがあるように春の選抜高校野球の出場校が発表される時期になりました。

センバツ」は春の歳時記のようでもありますが、やはり甲子園というと「夏の全国大会」がメインと言えるでしょう。

今更この場で私がどうこう言うまでもなく夏の甲子園高校野球の熱狂ぶり、人気ぶりは皆さんもよくご存じの通りだと思います。

この高校野球、言ってみれば高校生の野球の全国大会に過ぎないのですが他のスポーツとは違い熱狂的に郷土が団結して出場校の応援に駆け付けるといったことやその様子が大々的に全国的に各メディアで報じられて日本中が熱狂するといったことで随分他のスポーツの大会とは一線を画した特殊なものになっていると思います。

 

かつては地方から観光バスを数十台も連ねて兵庫へ向かうので大変な交通渋滞を起こして社会問題になったとか、応援に行った村には猫や犬しか残っていないので甲子園の留守村を専門に荒らす窃盗集団が全国に横行したとか、そんなことがあったほど甲子園への熱狂的な応援ぶりはすごいものだったのです。

今では少々熱も冷めてきたかもしれませんが、やはり似たような状況が程度の差こそあれ続いているのではないかと思います。

 

私も田舎移住を繰り返しているのでわかるのですが、いわゆる田舎の集落、村、部落というのは血縁・地縁を中心として強いつながりがあってまとまりを持っており、団結や一体感と言うのは相当なもので時には排他的なものもあると思います。

 

しかしこの甲子園というのは単に村ではなくてその地方や都道府県の一代表ということでいわゆる村単位というものを超越したもう少し大きなまとまりを象徴しているもののように思えてなりません。

言ってみたらそういう集落というものとは別のカテゴリーでの一つのまとまり。また、その集団への帰属感とか依存とか回帰とかいった感情がそこにあるからこそこれ程までに熱狂的な応援や甲子園ブームというものが日本で続いてきたのではないかと思います。また一方で甲子園にはそういった地域でのまとまりや一体感を作り出す魔力があるのかもしれません。

一体それはどういった感情でそこにある熱狂の正体とは何なのでしょうか?

 

愛国心」そのものではないかもしれませんが、この言ってみれば「郷土愛」というものが「愛国心」の基礎になっているのではということはよく言われることですし、「郷土愛」から「愛国心」への連続線というのはなかなか切りがたいものだという主張もあります。

 

先程言いましたようにいわゆる村社会が団結するのはよくわかりますが、高校野球に関して言うと都道府県単位で何となく自分の県の代表校を応援したくなるという心情は日本人が多かれ少なかれ持っている感情のようなのです。

 

私は京都人ですが、京都と言えば皆さんもご存知のように高校野球の伝統校、平安高校があります。今まで通算100勝の強豪で、かつて初めてバント戦法を行い相手チームを「あっ」と言わせたという逸話が残っています。さすがに伝統を大切にしながらもアバンギャルドなものを好む京都ならではの戦法だと思いますが、バントをくらわされた相手校は「卑怯千万」とうめいたそうです。

 

新聞にこういった試合そのものに関する記事やOBのお話、平安でしたら衣笠選手のインタビューなどが載っているのはわかるのですが、全く野球とは関係ないような選手の家族の話とか、応援団の苦労話とか言ってみれば故郷のお祭りに関する色々な記事のようなものが、高校野球については各新聞紙上やメディアで夏になるとあふれかえるのです。これはスポーツ報道というものではありません。

 

いわゆる地方の村社会ではありませんが、京都では平安高校が試合に出るごとに町中の色々なところのお店やお宅に行っても「平安出てるし、テレビ見とかなあかんで。」などと言ってテレビにかじりついていたり、夏タクシーに乗ると冷ややかなクーラーの効いた空気と同時に高校野球の中継がいつも流れていたりしたのが昔の私の思い出です。

 

これほどまでの特別な国民的な熱狂というのは一体どこから出てくるものなのでしょうか?

日本人はそれほどまでにあの「野球」というスポーツが好きなのでしょうか?

単に野球というものが好きなのならば技術的に高いプロ野球や大リーグを見ていればすむことなのです。むしろ技術的にレベルが稚拙な高校生の大会になぜこれほどまでに熱狂するのか?

世界ではこういった現象は一切ありません。

日本特有のものなのです。

こういうことが日本のスポーツの後進性を示しているのであって高校野球がある限り日本はスポーツ先進国にはなれないという主張がありますが、高校野球というのはスポーツそのものではない、少なくともスポーツだけのものではないと私は思っているのです。

 

かつてNHKのドラマで夏の甲子園を題材にしたものがありました。

故郷を離れて東京で会社勤めをしているとある青年が、都会の希薄な人間関係やぎすぎすした雰囲気に閉口して自分を失いかけていた時、故郷の母校が甲子園に出場することになりました。

 

彼は会社をしばらく休職して故郷に戻り母校の応援団を結成するための資金集めに奔走します。彼はその中でそれまでばらばらだった色々な昔の仲間たちや地元の人たちと交流し、人間の暖かみや信頼感を取り戻し、そして自信を深めて人生に再出発していくといった確かそんなストーリーだったように思います。

海外からも募金が寄せられたり、「お金は出せないけど野菜をいっぱいあげようか。」とか「応援団の旗をうちで作ってあげようか。」とか色々な人たちの協力ぶりがそこに描かれていました。

 

心暖まる郷土愛の人間ドラマのようでありますが、少しだけ変わった一節がそこにありました。

彼がその故郷出身の国際的な芸術家の事務所に出向いた時のことです。

その芸術家役の役者さんは誰だか忘れましたが、今で言うとちょっと小田切ジョー風の人だったと思います。その主人公が「母校の為に少しでも募金を賜れませんか。」と彼のアトリエを訪ねたところ、その芸術家は「そうですか。それは素晴らしいことですね。でも私が思うのは野球に打ち込んでやるのは結構なことですが、それは自分が野球をやりたいからやっているだけのことでしょう。それは大いに素晴らしいことだけどその為に他人が金を出さなければならないという理由はどこにあるのですか?」とまず、こうきたのです。

 

「故郷の代表ですから。何とかお願いします。ふるさとの代表チームですから。」と彼が言うと、その芸術家はすかさずこう切り返しました。

「それはわかるんだけれども。どうして、私が○○村の出身だからと言って、その村の代表チームにお金を出さなければいけないのか、どこに合理的な理由があるのか私はよくわからない。そこまでの一体感とか言ったものを私は持っていませんよ。もちろん故郷のことを悪くは思わないし、懐かしいとは思うけども。それで野球のチームにお金を出さないといけない必然性はどこにあるのですか?個人の自立というものを前提にして野球をやりたい人は野球をやる、他のスポーツをやりたい人は他のスポーツをやる、それでいいじゃないですか。どうして野球にだけお金を出すのですか?」ときたのです。

 

「甲子園に行かねばならないからです。お願いします。」主人公が言うと、

「そういう発想でいつまでもやっているから日本人と言うのは個人の自立ができないのですよ。各自が自分のやりたいことを思いっきりやるのはいいけれどもそれに周りが振り回されるとか、一体感とか、そういったことを押し付けてくるのはおかしいんじゃないかな。国際化の時代にもっと広い視野を持って、自主性とか個人のアイデンティティーとかそういったものを基本にして考えて・・・」と彼が言葉を続けようとしましたが主人公は、

「わかりました。どうもお邪魔して申し訳ありませんでした。失礼します。」と失望してその場を去って行ったのです。

その芸術家はそれでも尚、その持論を続けて一人でしゃべっている様子が滑稽に描かれていました。

 

間違いなくここでその芸術家は身勝手であまりに個人主義的で故郷のことを愛さない、郷土愛のない人間のように描かれていたのです。それに耐えながらも無礼なことをせず、帰ってきた彼が何と忍耐強く誠実な男であったかということがドラマの言いたかった点のようなのです。

 

ここに甲子園のスピリットが凝縮されているように私はそのドラマを見て感じました。

 

ふるさと、故郷、郷土。ほっとする言葉ですし、だれでも「藪入りするんや。」とか「田舎へ帰ってくる。」とか言って、夏になると故郷へ帰って都会の垢を落としてのんびりするというのはよくあることです。それは決して悪いことではないと思います。

少年時代に戻って川で遊んでみるとか、旧友と忌憚なくビールを飲んで何日か過ごすとか、とても素晴らしいことなのでしょう。そういう感情に私は何も異論はありません。

 

しかしその故郷とかふるさととかそういったものへの帰属感の強さ、そこに属しているその一員であるという意識の深さは人により様々であろうと思います。ずっと地元で役場に勤めている人、近郊まで通勤している人、はるか離れた大阪や東京に出て所帯を持ち仕事をしている人、他の県へ嫁いだ人、また海外で事業をしている人、色々な条件によって様々であろうと思います。

「それはわかる。それでもみんな〇〇の出身なんやから一つなんや。みんな同じなんや。」と言ってくくろうとする考え方はあります。そしてそういったまとまりと言うものを基にして一定の行為や負担を個人に要求する考え方もあります。

 

先ほどの甲子園への応援など、まさにその一つなのです。

単に故郷へ戻って旧友と楽しい時間を過ごすなら何も問題はないのですが、こういった故郷への貢献を要求するということになってくると少々話は複雑です。

またそういったことを基に一定の寄与・貢献といったものをしない人を「郷土愛のない人」と言うようになると尚更話は複雑です。

これは間違いなく前回述べた美しい自然そのものに対する純粋な愛、それを伝えていこうという決意などとはまた異質のものです。郷土の山河を思い、山河そのものを愛する気持ちといったものとは別のものなのです。この辺りは誤解してはなりません。

 

帰属対象としての集団が本来的にはあまり実質的な存在やカテゴリーとしての独自性を有していなくともその単位としての集団が帰属者に対して一定の要求(貢献・寄与・忠誠)を行い、その結果その構成員の中で要求に応じたものと応じないものがあると仮定してください。

この場合、その要求に応えることが一定以上の負担や苦痛を伴う場合、要求に応じた構成者の間には消極的価値の共有が生まれそれによって連帯感が生まれると同時に帰属対象としての本来、原初的内実のない存在に積極的実質的価値が充当されてしまうものなのです。

それと同時に非応答者に対する非難と攻撃性が生じるものなのです。

 

わかりやすい例をあげてみましょう。

ある村で新年の祭事に備え年末に氏神の境内掃除をすることになったとしましょう。

大して汚れてもいないし、別にやらなくてもいいのではと皆感じていました。

婦人会の全員が「やりたくないな。」と心の中では。

でも「年末やし。氏神さんの掃除せなあかんのう。」と言う村の長老の何気ない一言に誰も異を唱えることはできず、寒風吹きすさぶ中10人のメンバーのうち8人が出て掃除を行いました。

案の定、寒さがとてもこたえ数人が体調を崩しました。

「大変だったわねー。でもやっぱり氏神さん掃除できてすっきりしたし。」

「これだけきちんと掃除してる村はそうないで。うちはやっぱり大したもんや。」

「そうや。うちは律儀な村やもん。よそとちごうて。」

みんなでおつかれ会をして、苦労話で盛り上がったのです。

「ところでAさん、来なかったわね。」「あっこは姑さん具合わるうて診療所連れてかなあかんって言ってたし。」

「でもそんなん言うたらうちかって、息子インフルで寝てたのに私出たんよ。」

「まぁ、Aさんはわかるとして去年都会から引っ越してきたBさん、お花のレッスンがあるとか言うて休まはったわね。」

 

これからどんな恐ろしいことが起こるのでしょうか・・・

(そもそも「今年はゴミ一つないしやめといてもいいですか。」とかの長老に一言言えば案外やらなくてよかったかもしれないのですが・・・)

 

帰属集団に対して構成員が自発的に自由に何かを行うなら何も問題はないのです。

しかし、集団の方から一定の行為を義務化して要求すると必ずこのような事態が生じるのです。

 

私自身、果たして「愛郷心」とか「郷土愛」とか「ふるさとへの愛」と言ったものがあるのでしょうか。

私は京都生まれの京都育ちです。

今、隣県の西近江の高島というところに住んでいます。

仕事で京都に出向くたび、大原を過ぎて京都の街並みに入りまた鴨川の様子などを見ていると「ああやっぱり京都だな。」とほっとすることはありますし、何かにつけ端正に・丁寧に行うところ、また野球に限らず伝統を大事にしながらも新進気鋭の気風を持っているところ、いわゆるつくられた自然の美しさ、それをきちっと保ってきた気概、何かにつけホンモノを見極める目など、やっぱり京都は素晴らしいなと思うことがあります。

 

しかしながら反面、行儀がましいことを小うるさく言ってみたり、プライドが高そうに見えて金儲けの為なら卑屈なまでにいろいろなことをするような割り切ったところ、「お金に関心などないのですよ。」というふりをしながら裏では大阪人以上にシビアにがめついところ、また俗に言われているような京都人独特の本心を見せない陰険さなど、言ってみれば嫌いなところはいくつもあります。

私自身、物事を客観的に見る方で故郷である京都についてもとてもいいなと思う点と嫌だなと思う点をはっきりと見極めています。

「京都だからまるごと好き」という心情は持てないタイプなのです。

ですから京都の町中に住むのではなく、ちょっと京都から離れたところに住みながら京都のいいところだけをつまみ食いするようなライフスタイルをとっています。京都の郊外の一番端っこにいるつもりです。私は今それがとても気に入っています。

 

でもいわゆる「郷土愛」というものを旨とする人たちからすれば「それは郷土愛ではないよ。まるごと愛してこそ郷土への愛だ。愛郷心だ。あなたは愛郷心のない人だ。」と言われるのかもしれません。確かにそうなのかもしれません。

 

物を愛する・人を愛するというのはそういったことかもしれないのです。

何もかもひっくるめて丸ごと愛する、受け入れるということ、自分のものにするということ。それが愛郷心なのかもしれません。

ちょっと私はそういったものには抵抗があります。

皆さんはいかがですか?

もしこういった「愛郷心」「郷土愛」といったものの延長上に「愛国心」があるとすればやはりまるごと受け入れるべきだという論法になるのでしょうか?

その道のりというのは非常に複雑ですし、よくわからないものです。

またこれから色々な角度からそういったことも考えていきたいなと思います。

 

今回は「甲子園と愛国心」、郷土愛というものについて少し考えてみました。

 

P.S.

最近私はとても不気味なことに気が付きました。

あの甲子園の主題歌の「ああ、栄冠は君に輝く」というのがありますね。

「雲は湧き、光あふれて天高く、純白の球今日ぞ飛ぶ・・・」というあの曲です。皆さんよくご存じでしょう。

もう一つ、とても有名な軍歌で「ラバウル海軍航空隊」というのがあります。

「銀翼連ねて南の前線、揺るがん守りの海鷲たちが・・・」というものです。

最近ネットで簡単に音楽が聴けるらしいですから一度是非2曲聴き比べてみてください。

メロディが全くそっくりなのです。

とても不気味な感じがしました。