愛国心シリーズ第3回「都大路と愛国心」

 

 

 私は京都人です。京都というのは大きい都市の割に道が狭かったり複雑に曲がりくねったりしていて、他所から来られたドライバーの方はとても鬱陶しいことも多いようです。近年つくられたいわゆる計画都市ではないのです。それゆえに仕方ない面はあるのですが、大通りと言ったものが割と少なく比較的車線幅も細いところが他の都市に比べると多いと思います。

 しかしながらその中で際立って飛びぬけて広い通りがいくつかあります。堀川通五条通御池通などです。他の通りに比べてとても広いのです。また北区の紫明通などは交通量は極めて少ないのに不自然に広いのです。これはなぜでしょうか?実はこれには悲しい過去があるのです。

 第二次世界大戦の末期。日本が敗色濃厚になってくると大都市にB29による爆撃が次々と行われました。皆さんもご存じの通りです。かの東京大空襲。いかに人類史上悲惨なものであったか繰り返して言うまでもありません。

 京都でもやがて空襲があるだろうという話になったのです。終戦の年のことです。19453月大阪に大空襲があり京都の人たちは南の空が真っ赤に燃えているのを見て心の底から震え上がったとのことです。「ああ、次は京都も来るかもしれない。」と。

 1940年以来、防空法というものが作られ内務大臣の指示の元、都道府県で防空計画を立てて各市街地に防空対策を行うこととなりました。主な対策としては建物を破壊し空間地や空地をつくることによって一か所が燃えても延焼するのを防ごうと。いわゆる破壊消防であります。しかしながら東京大空襲の時、いくらこのようなことをやっていても絨毯爆撃をされると何の効果もなかったということは明らかなのでした。しかし大阪大空襲の余波もあり、京都でも終戦の年の1945年の春に「これはぜひ建物疎開を行って強制的に広い通りや空き地を作って京都が全焼することを防ぐように対策せねばならない。」ということになりました。

 そもそも1943年に都市疎開実施要項というのが閣議決定されましたが、この段階では京都はまだこの対策の中には入っておりませんでした。しかしながら同年に新築の制限だけでなくさらに既存の建物も破壊してもよいという防空法の規定が付け加わり、そして先ほど述べたような諸所の大空襲の影響もあって取り乱すように矢継ぎ早に1945年の春に京都で建物を取り壊して京都の町をいくつかブロック化し延焼を食い止めるための対策を行おうということが実施されたわけです。具体的に選ばれたのが五条通御池通堀川通紫明通などでした。さらにその他のエリアにもいわゆる「建物疎開」建物取り壊しを行って大きい余地・空地を作ろうということでしたが、そこまで間に合わぬうちに終戦になったのです。

 私の母方の曾祖母は京都の西陣の有名な織屋の女将でした。今でもその本家は堀川通上立売を西に入った西陣の一角に残っています。かつて私の曾祖母が女将をしていたそのY家という西陣の織屋は大した名門で大富豪でした。女中さん、丁稚さんを合わせると何十人もおり別荘もいくつも持っておりいわゆるプライベートベースボールチームのようなものまで持っていたという有様でした。曾祖父は京都のかの有名な色街の島原の太夫を身請けしておられたというくらいです。どれだけ大変なお金だったかということはよくわかることです。私の祖母はその島原の太夫さんに教育係として育てられとても怖い人だったとよく述懐しておりました。いわゆる武芸百般に長けており読み書きや行儀作法などを教えてくださったそうです。

 そんな名門の織屋でありましたが、先ほどの防空計画に従って大きな屋敷の大半を取り壊される羽目になったのです。疎開票というのが貼られ、これは建物の赤紙と呼ばれ恐れられていたものでした。

一切逆らうことはできず大きかった屋敷の大半が縄をかけられ潰されていったのです。それは終戦になる年の春でした。もちろん有無を言わさぬことです。

 建物が壊され家の中がむき出しになり、でもその壊されて残った建物の壁に張る板一枚国はくれなかったのだと私の祖母は嘆いておりました。涙が出てきたそうです。一同で堀川通に立って屋敷が壊されるのをただ呆然と眺めていたそうです。「泣いたらあかん。文句言うたらあかん。絶対あかんで。非国民や言われるし。」と曾祖母は大声で叫んでいたそうです。周りの人達は「ほんまにお宅可哀想どすなあ。大変どすなあ。えらいことどすなあ。」とひたすら同情してくれたそうです。でもわかっていたのでしょう。私の祖母も。曾祖母も。みんなそのことに同情はしてくれるけど、もし文句を言ったり「嫌だ。」と言ったりしたら「非国民」と急に手の平をかえしたように攻撃してくることを。

 戦時中とはそういうものだったのです。言ってみれば一つの選ばれた生贄でありました。そのことをみんな「可哀想だなあ。大変だなあ。ご苦労だなあ。」とは思うけども生贄に選ばれた以上、「潔く生贄になっておけ。ごちゃごちゃ言うな。」と言うことだったのでしょう。(今日、沖縄の基地問題について現地の人たちが様々な被害を訴えると「黙っておけ。」とばかりにバッシングする本土人のネット言論にも一脈通じると思います。)

 そして建物を取り壊してからほんの3ヶ月、4ヶ月もしないうちに終戦の日がやってきました。京都には大きな空襲は一切ありませんでした。

 「一体何やったんや。あれは。」皆思ったそうです。「潰したと思たら戦争終わったやんか。何のためにやったんや。」終戦になってから皆、口々に口惜しく思ったそうです。

 もちろん建物疎開、いわゆる強制取り壊しをする段階ではその分についての補償は行うという前提で取り壊しを行ったそうですが、戦争中は実際にそのような支払いは一切ありませんでした。戦後、ほんの三年間くらいだけ戦争中に有効であった防空法を援用して賠償金の支払いの受付をしていたと言いますが、一般に周知徹底されていたわけでもなくそのことによって十分な補償を受けたお家は京都でもほとんどなかったように思われます。事実、私の祖母も「今の今まで一円も国からはもろてへんのや。」といつも私に言っていました。

 この辺りの経緯は京都大学出版会から出ている「建物疎開と都市防空」という川口朋子さんという研究家の書かれている本に詳しいです。大変有意義な研究であると思います。この方が博士学位を取得された時の京大の博士論文審査の時の台詞が大変洒落ているなと思いました。

 「人災としての戦災をあぶり出した数少ない研究であり貴重であり博士論文に値する。」というものなのです。まぁ言ってみれば戦争と言うのはすべて人災ですが、このように直接敵軍の攻撃により破壊されたわけでもないのにわざわざ前もって行政が建物を取り壊したというのは人災としての戦災というわけです。(沖縄戦では上陸してきた米軍よりも日本軍によって殺された人の方が多いと言われています。赤ん坊は邪魔になるからと注射で毒殺したり、ちょっとこれとも似ていますね。)なかなか考えた表現だなと思いました。

 言ってみればそれは当時の国家がやったあまりに国民として納得できない所作に対する一つの表現であるのかもしれません。「人災としての戦災」・・・

 

 先述しましたように私の母方の本家は大変な富豪でありましたが、このように戦争中に建物・工場の大半を取り壊されたため戦後の復興景気の時にその波に乗ることはできませんでした。そしてかつては弱小だった後発の同業者にどんどん追い越され、没落していったわけです。

 もう一つY家が没落したのには理由がありました。それは後継者であった「太郎さん」という人を陸軍兵士としてとられ、戦車隊として長く出兵した挙句にレイテ島で戦死され、後継者を失ったからでした。

 

 国家というのは暴力装置であるとか、国家は暴力的であるという言葉があります。マルキシズムの専売特許の用語のように思っている人もいるかもしれませんが、そうではありません。要するに国家というのは一切交渉できる相手ではないということです。たとえいくら強引な人であってもまたヤクザであっても何とかこちらが相手にかなうような条件を出して交渉したり、誠意を示したり、いろいろな情が移ったりすれば、多少は遠慮してくれたりまた交渉の余地もあるものです。

 

 先ほどから述べているようないわゆる戦時中のような非常事態の時はもちろんのことですが、そうでなくても平和である時代、昭和であっても平成であっても令和であってもこのことは変わりないのです。

 建物の強制収用などもちろんそうです。いろいろな認可の問題等々。どんなことであっても自分の規定を持っていてそれについていくらこちらが合理的な主張を行ってもこういう規定だという一点張りで一切、聞いてはくれないのです。この辺りについては絶対的なのです。国家が暴力的であるというのはそういう意味です。言ってみれば絶対的と言っても良いのかもしれません。

 

 先ほどの戦時中の京都の強制疎開・建物取り壊しなどはその最も最たる例です。まぁ、それは仕方なかったことだなぁ。戦争のことだから。昔のことだから。そうでしたか。大変でしたねぇ。ということかもしれませんが、それで済むことなのでしょうか?もちろん私とすれば大変な富がそこで失われてしまったわけです。もしこのようなことがなければもっと私の懐にも母方からの遺産がやってきたかなどという現金なことも実際ないわけではありませんが、そういった意味で国家が腹立たしいからこういうことを言おうなどというわけではないのです。

 

 「愛国心」ということがテーマでしたね。話をそちらへ戻しましょう。考えてみてください。今、急に空襲があるわけではありません。しかしながら「北朝鮮のミサイル(最近は飛翔体とか言うそうですが)が飛んでくるぞ。」ということで防空訓練をする、避難訓練をするということが行われていました。最近でも5000億出してイージス・アショアという防空システムを買ったという話です。防空のためにもっと徹底した措置を行わねばならないと現在の政権がいつ言いだすかわからない、言いださないという保証はあり得ないのです。そんな時に想像してみてください。

 あなたの持っていらっしゃるお家。銀行で大変なローンを借りて建てて「やったー。新築。」のお家。ローン5年払った。後まだローン25年残ってる。頑張ってローン払っている。自慢のお家。

 いきなり「ここはイージス・アショアの基地にするから取り壊します。」と言われたらどうしますか?もちろんそれに代わる十分な補償をしてもらって立ち退きをして、もっと大きな家が建てばそれでいいじゃないか。それならそれでいいのかもしれません。しかしながら先ほどの建物疎開のように「必ず補償はするから。」と言ってそのまま補償されなかったらあなたはどうしますか?もしくは「オリンピックに随分金を使ったので。」「年金も払えないぐらいなので。」と言ってほんの少ししか補償してくれなかったらどうしますか?「そんな馬鹿な。ええ加減にしろ。あほか。」と言いたくなるのではありませんか?でも実際、私の先祖はそういう目に遭ってきたのです。そして今まで一円の補償もないのです。三年そこそこの戦後のどさくさ期に行った請求受付の後は、もう請求はなかったということでこの国はその分の賠償額をすべて京都府の財政に編入する形をとりそれにより賠償責任は一切なくなったということで幕引きを行ったのです。今更もし訴えても一切訴えは却下されるでしょうし、京都府に請求してもそれが通る見込みもないと思われます。

 多くの京都の町中の方がそうして泣き寝入りしてきたのです。反国家的・反体制的な思想などと言わなくとも「あぁ、国というのはそういうものなのだなぁ。そんな時にはそんなことをするものなのだ。」ということで国家、国というものに対する冷ややかな目線や冷徹によく見ていかないといけないなという警戒心や利口さのようなものを京都人は育んできたのかもしれません。

 そしてちょっとした心情的な盛り上げやムードによって「ほいほいと乗らされるようなことはないぞ。」という国家と言うものを或る意味、批判的にそして知性的に観察してやろうという目線をこの人災によって養ってきたのかもしれません。

 

 戦後長く京都では蜷川虎三知事による革新府政が続きました。「憲法を暮らしの中に生かそう。」がスローガンでした。7期28年です。京都はどうも手を出せない革新の城だとか京都はマルキストの巣窟だなどと自民系の政治家は嘆いてきたものです。こういった傾向はかの建物疎開の顛末がその根底にあり、そこから生まれてきたひとつの風土と見るのは穿ち過ぎでしょうか。

 

 もしあなたの大事なお家がローンを組んで建てた大事な新築のお家がそんな風にして国家により取り壊されたら、あなたはこの国に対してどんな感情を持ちますか?

 「お国が言うことだから仕方ないことだから。」「お国が必要なことだから当たり前ですよ。」と思えますか?うちが選ばれて壊されたのは何か生贄だと言う風に思いますか?それとも他人ではなくて自分がむしろ国の為に貢献できる立場になったのだから「名誉なことだ。」「ありがたいことだ。」と思ってあなたは喜びますか?もし一円の補償もしてくれなくても。それがやはり日本国民として当たり前のことだと思えますか?

 「愛国心」があるならそんなことぐらいできるじゃないかと言われた時にそれが「愛国心」だと思えますか?そして「愛国心」を持てますか?また「愛国心」とはそういうものなのでしょうか?国家というのはどんなことを要求してくるのかわかりません。

 

 話は変わりますが、基本的に夫婦というのはお互いの信頼により成り立っているものでいくら愛しているから、夫婦だからと言っても一方が一方に対してあまりに理不尽なことばかり行い何の責任も果たさない状況が続き、またそれが改善される見込みがないというのならば破綻するのは当然のことです。

 国家と国民の関係というのは夫婦の関係とまた別だと。もちろんそれはその通りだと思います。先ほどの夫婦の例のようにお互いの信頼が崩壊しているような場合でも一方が一方に対して圧倒的に服従しなければいけないという考え方はあります。男尊女卑的に考えたりまたあまりにも変態的にマゾヒステッィクに「私は奴隷でもついていきます。」という考え方もあるでしょう。また「そうだ。お前は奴隷だ。言う事を聞け。」と言ったようなSM的な夫婦関係もありえるでしょう。それはそれで個人の自由なのかもしれませんが。夫婦の場合、もし片一方がそれがどうしても嫌ならば離婚という手があります。

 しかし国家の場合、簡単に国民は離婚することができるのでしょうか?少なくとも日本は消極的な国籍の抵触というものを認めていません。すなわち無国籍になることを許さないのです。どこか他の国の国民にならない限りは日本国民を辞めることはできないのです。なかなか離婚はできないのです。ならばそんな状況でいくら理不尽なことを要求されてもそれに甘んじなければならないというのが「愛国心」の主旨なのでしょうか。「愛国心」とはそういうことなのでしょうか。最近「愛国心」という言葉がよくもてはやされていますし、日本の良さや伝統を見直そうという動きもあります。それ自体がすべて悪いこととは私も思いません。

 「日本のまほろば」「日本人の誇り」「美しい日本の国柄」などということがよく言われています。しかしその延長上に必ず「愛国心」という言葉も出てくるでしょう。ムードでこういったものを礼賛したり、そういった集会に出てそういったことを賛美するようなことをお互い言い合って気持ちよくなって気持ちよく過ごしているのは何も問題ないと仰るかもしれません。そうかもしれません。しかし先ほどのようにもし建物を壊されて、とか昔の京都の建物疎開のようなことになった時でもあなたはやはり日本の国を愛しているからということでニッコリしていられますか?それでこそ「愛国者」なのでしょうか。たとえ一円の補償もしないと国家がうそぶいたとしても。

 

 よく「非国民」という言葉があります。「非国民だ。あんな奴は。」「愛国心」がない人間のことを「非国民」と言うのでしょう。でも「非国民」と言う言葉も変な言葉ですね。「非国民」と言うのは「国民に非ず」「国民でない奴」という意味ですね。

 国民でないのなら日本人としての義務など何もないから放っておいてくれればそれで済むのに「非国民」だと言って、その上で日本人としていろいろなことをしないからいけないと非難したりしてくるのです。「非国民」と言うのは本当に変な言葉ですね。「悪国民」「劣等国民」などと言うのならまだわかるのですが・・・

 国家が理不尽なことを行えないようになっていって欲しいなと思うのは私だけではありません。しかしながらもし国家が理不尽な要求ばかり国民にしてきたり無茶苦茶な不合理な要求を国民にするようになるとしたら、それが放任されるとしたら、その母地となっているのはやはり「可哀想だなぁ。」とは言うけれども、もしそれに対して何かごちゃごちゃ言う人がいたらその人のことを「非国民だ。」と責め立ててそれによって悦に入っているような国民全体のムードなのかもしれません。たまたまその人が生贄になっているとしても明日は我が身と思って、みんなで「不合理なことは不合理だ。」と「よくないことはよくない。」と「きちんとすべきことはするように。」と求めていく。そんなことができない風潮が国家の横暴を許していくのでしょう。そして本当に愛を交わし合えるような関係というものが国民と国家の間にできないようになっていってしまうのではないでしょうか。

 

 京都に行って堀川通を通るごとにそのことを思い出さずにはいられません。