愛国心シリーズ第1回「あゆと愛国心」

 

愛国心とは何だろう?」シリーズ第1回は「あゆと愛国心」です。

「あゆと愛国心」と言っても浜崎あゆみも、もしローラと同じように「辺野古の海を守れ。」と言ったなら「反日だ。」とかそういう話ではありません。

川魚の鮎のことです。

 

魚偏に占うと書く「鮎」という魚は、海や琵琶湖から春に遡上して上流で大きくなり、そしてまた秋になると川を下って次代に生をつなぎ死んでいくことから一年限りの魚ということで「年魚」と呼ばれたり、また天然鮎の素晴らしい香りは川魚特有の生臭さは全くなく、まるで西瓜や瓜のようなので「香魚」と呼ばれたりもしています。

 

その生態は他の川魚とは異なり成魚になると川の底の石についている藻類だけを食べ、そのなわばりを守るために侵入してきた他の鮎を排撃して追い出すことから、それを利用した「鮎の友釣り」が日本では昔から行われてきました。

 

実は私自身この「鮎の友釣り」をもう何十年も行っています。

この漁法は大変特殊で餌をつけて鮎を釣るのではなく、鮎のなわばり意識を利用しオトリ鮎を仕掛けの先にハナカンでとりつけ、野鮎のなわばりへ侵入させます。そして侵入してきた敵であるオトリ鮎に向かって体当たりしてきた野鮎が掛け針にかかって釣獲されるという漁法です。

「オトリがけ」とも言われているこの「友釣り」という漁法は世界中探してもどこにもない釣りで非常に繊細で川を見る目や技術を要するものです。まさしく日本の伝統漁法の一つです。それが日本特有の美しい風土や長く受け継がれてきた伝統・技術を土台にして成り立っているのは間違いのないことです。

 

またこの鮎というのは大変郷土色とも関係が強く、各地で「やはりうちの川の鮎が一番。」という意識が強く「坂東太郎の鮎が一番。」とか「白神の黄金鮎は日本一。」と自慢したり・・・

私は京都出身ですが、京都人は皆、例外なく「日本一北桑(北桑田郡)の献上鮎。やはり周山(上桂川)の鮎が一番。」などと言い、それを自慢してきました。「周山の鮎は焼いても口を開けたりしいひん。」品位のある一級品と自画自賛してきたようです。(ちょっと笑えますが。)

いわゆる祇園貴船などで夏に川床などで出される高級料理の主役としての地位を保ってきたわけです。

 

私自身根っから鮎が好きで鮎の友釣りが好きなのです。趣味でなく私の夏場の副業です。

このとても技術を要するけれども奥深く、日本独自のこの漁法を心から私は愛しています。そしてあの美しい魚体、食べれば何とも言えないあの独特の「sweet fish」という英訳でわかるような甘みのある風味、キモの苦さ、夏の暑さを吹き飛ばしてくれるようなあの独特の食味などとても言葉では例えられないようなものです。

養殖鮎とは全く一線を画し、別の魚です。(養殖鮎は焼けばイワシのにおいがします。)

鮎と私がここで言っているのはすべて「天然鮎」のことなのです。

 

このように日本独特の古来からの漁法というものを愛し、そしてそれが成立するような日本の風土というものを愛しているというと「あなたはとても愛国心の強い人なのね。」と人から言われることもあります。

事実、私はこのような釣りが成立するような日本の川・自然というものを心から愛していますし、それが次代までも受け継がれるように我々が守っていかなければならないと思っています。

この思いはとても強いものです。

 

でもこれがすなわち「愛国心」というものなのか、どうなのか私はよくわかりません。

 

この鮎という魚は実は天皇家ととても縁の深い魚なのです。

かの昔、いわゆる神話の時代に皇室の御先祖である神功皇后新羅遠征の前の熊襲征伐を行った時に果たして進軍が上手く行くかどうかを占うために竿に糸をつけ川に放ち「この鮎が釣れれば上手く行くだろう。」ということを占ったと言われているのです。首尾よく鮎が釣れ上手く行くだろうということで軍を進め、征伐は上手く行ったという逸話からこの魚は魚偏に占うと書いて、国運を占う「鮎」という名前になったのです。明治天皇もとてもこの魚を愛してよく食したと言われ、そういったことからもこの「鮎」という魚は日本の魚として国民の間に広く定着し、夏の和食の中心としての地位を占めてきたと言えます。

 

しかし先ほど述べましたように果たしてこういった日本の自然そのものを心から愛し、それを好む心というのがそのまま「愛国心」なのかどうなのかこれはよくわからないことです。

いわゆる「愛国心」というものがあるのならばこういった日本の自然といったものを愛する心がその根底とか基礎になっているんじゃかないかという一応の憶測は成り立ちますが、果たしてこの自然といったものへの「愛」そのものが「愛国心」と言えるのかどうかはちょっとわからないところです。

 

日本の山が好きでひたすら登山好きな人は皆、「愛国者」なのか。

私のように友釣りの釣り人は皆、「愛国者」なのか。

棚田の田園風景を好んで撮っているカメラマンは皆、「愛国者」なのか。

よくわからないところです。

 

「国破れて山河在り」というのはかの有名な中国の詩人、杜甫の言葉です。

国家というものが戦で崩壊してもきちっと自然さえ残っていればまたやり直せるものだということを示した言葉だと思います。

 

美しい自然、健やかな自然といったものが国を営む上で大事な基盤であることは疑いようもないと思います。それは国民そのものを支える一番大事な部分だと私自身思うのです。

美しい空気、美しい水、そして美しい大地。

こういったものを大事にしかけがえのないものとして愛していく心、汚してはならないと誓って実行していく心、こういったものがとても大事で言ってみれば「愛国心」なるものの「基礎」であるような気はします。そう考えると「水道法」によって貴重な水資源が海外の資本・企業によって左右される可能性を招来するというのはいかがなものかと思えてなりません。

 

いわゆる高度経済成長以来、我々はこの国の自然というものを次々と消費の対象としたり、また汚したりしながら経済成長を続けてきました。

一時期程、甚大な公害の汚染はなくなったと言われていますが今でもすべての問題が解決したわけではありませんし、むしろ身近なところを見ていますと琵琶湖の水質などは年々悪くなっていく一方のような気がします。「滋賀県は環境県だから」とか「環境派知事が守ってきたから」とか言っていかにも琵琶湖の水質が保全されているような幻想を抱いている他府県の方がおられますが、現状は全くそうではありません。特に琵琶湖大橋より南の南湖の辺りを訪れてみてください。暑い時期になれば湖岸に立つのもためらわれるような悪臭。外来性の水草で全く出入りできなくなった漁港。突然全滅した烏丸半島(琵琶湖博物館)のハス群落。そしてまるでマンホールの中をのぞいているような湖水の様子。とても健やかな琵琶湖とは思えません。

日本中どこでもすべてとは言いませんが、環境問題がきちんと解決し健やかな国土になっているとは言えないのが現状です。

 

これによって鮎自体も数が減ったり、昔のような質のいい鮎でなくなったり、小型化したり、また時には絶滅したりしているところも多いのです。

 

環境全般について論じるのは時間がありませんが、私の住んでいる滋賀県では近年、琵琶湖の天然鮎の産卵量は例年の平均の1/50しかないということが県の水産課によっても認められています。1/50です。ほとんど絶滅寸前といったものです。

その一因はどうも琵琶湖の環境の変化にあるようです。

孵化した稚魚がしばらく育つため必要なプランクトンが外来性プランクトンの繁殖によって激減し、いくらたくさん卵を親鮎が産んでも生まれた稚鮎が育たないで死んでいくというのです。

県の水産課に聞いたところ、人工河川などを作って養殖鮎を放流したりして産卵を増やして対策しているから何とかなるだろうと言うのですが、いくら援軍を送ったところで食べるものがなくて皆、死んでしまうのならば何の効果もないと思われます。

状況は大変悲観的です。

 

また海から遡上してくる海産鮎をとってみても私が近年主漁場としてとても質のいい鮎がいるというので大事にしてきた嶺南地方(福井県南部)の若狭湾にそそぐ南川ではここ23年海からの遡上が激減し、天然鮎が絶滅に近い状態となっています。大河、九頭竜でも同様です。

日本全国すべての鮎がもちろん絶滅したわけではありませんし、放流等々の方法によって少しでも保全していくことは可能だと思います。しかしながら各地で昔に比べたらとれなくなったとか、数が少なくなったとかいうことはいろいろな河川の釣り人から私も伝え聞いています。

神宮皇后の故事からすると、鮎がこれほどまでに姿を消しているというのはまさに「日本も国運尽きたり」ということを鮎が警告しているのかもしれません。

日本の国土を大事にしないで放射能の危険を承知で次々原発を再稼働して目先の利益を得ようとか、、ひたすらダムばかり造ってその場の土建事業で儲ければいいとか、乱開発で山肌を削ってでもメガソーラーをつくればいいとかそういった発想というものはそもそも「愛国心」に反するのではないかと思えてならないのです。

 

かつて川で出合う大先輩である老釣り師たちは「あんたらこれから何十年も鮎釣りできてええなぁ。わしはもうあと何年もないけど。」とよくおっしゃっていました。

彼らは恐らくこれから先、自分が死んでも日本の鮎は毎年川にやってくる、そしてこの友釣りは引き継がれていくということを確信しながら引退していかれたのだと思います。

その意味ではとても幸せなエンディングだったのでしょう。

目の前で鮎がいなくなったということを体験しなければならない私の世代、これはとてもショッキングなことです。

これまで営々と引き継がれてきたこの日本の美しい山河。そしてそこに育まれてきた美しい魚たち。こういったものを子孫の世代までも伝えていく責任が我々にはあるでしょうし、こういったものへの「愛」というもは決して欠いてはならないものだと思います。

 

原発運動を行う市民団体に対して「反日だね。」「のんきなお花畑野郎どもで愛国心の欠片もないね。」などといったネット上の書き込みがよくあるようですが、彼らの言う「愛国心」とは一体何なのでしょうか。

1回目のお話は「あゆと愛国心」でした。

愛国心って何?(序章)

 

毎回いろいろな話題について皆さんと一緒に考えてみようというこの社会派ブログですが、これからしばらくは「愛国心」というものについて一緒に考えてみればと思っています。

 

愛国心」というのは日常的にあまり頻繁に使う言葉ではありませんが、折にふれ耳にする言葉です。近頃では学校の教科の中で道徳を教科化し評価するとか、その中で「愛国心を教えるとか、高校生の倫社政経の教科をなくして代わりに道徳の教科を設け、そこで「愛国心」教育を推進すべきだとかいろいろな教育界での議論がなされています。

 

「あの人は愛国心が強い。」とか、「この人は愛国心がない、良くない人だ。」とか、また「愛国心は強制するものではない。」とか、「いや。愛国心を持つように要求した方がいい。」とか、いろいろな議論がなされています。

果たして「愛国心」を要求した方がいいのかどうか、また「愛国心」教育をした方がいいのかといった議論はとても難しいことですが、私が強く感じるのはそういったことを議論する前にまず「愛国心」というものが一体何なのか、よくつかめていない人が多いのではないかということです。その上でなぜか「愛国心」という言葉だけが一人歩きしたり、その正体がよくわからないのにそれが「いい」とか「悪い」とか論じていることがよくあるのではないかと思います。

 

私自身も思想研究の専門家ではありませんし、よくわからないことばかりです。

これから何回かに分けて私たちの回りで「愛国心」という言葉が問題になったり、また関連していると思われる事柄についていろいろな切り口から「愛国心」とは一体何なのかということを皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

決して結論が出る問題ではないという気もしますが、まず「愛国心」というものが何かということを考えてみないとそれを要求すべきかどうかといったことも全く議論が成り立たないわけです。

難しい問題ですが、あまり堅苦しくならないように身近な話題や誰でもわかるような話題について私も素人ですから素人的な言葉で共に考えてみたいと思います。

またしばらくおつきあい下さい。

 

ストの出来る社会に

 

 

かつて私が大学生の頃ぐらいまではよく「スト」「ストライキ」というものを町で見かけましたが、最近全く見かけなくなりました。

 

中学校の「公民」の教科書を開けてみると「労働者の権利」というところで「資本主義経済では労働力も一つの商品として売買されている。」と、「労働者は雇い主である使用者に労働力を提供し、その見返りとして賃金を受け取ることになっているけれども労働者は使用者に対して弱い立場にあるので一人一人がばらばらに交渉したのでは不利な条件になりがちである。そのため労働者は労働組合を結成し、労働条件の改善を使用者に要求するようになった。」と。

「国も労働組合を結成したり、また労働争議を行ったりすることを権利として認め法律で保障している。」

日本では労働三法と呼ばれている労働基準法労働組合法・労働関係調整法が存在する。

という風に解説されています。

 

でも最近はブラックとか1か月休みなしとか一日16時間働かされたとか何時間働いても全く残業代はもらえないとかそういったとんでもないことが横行しているわけで労働組合を作って団結してストをするなどまるで雲の上の話のような感じを持っている労働者も多いのではないかと思います。

 

労働組合を結成することは国民の権利であり、労働組合を結成しないことを要求したり労働組合に入らないことを条件としていろいろな恩典を与えたりすることは、不当労働行為として違法なことです。

これは現行の労働法によって規定されていることなのです。

しかしながら私の周りを見てみると、労働組合労働組合らしい活動をしているような企業というのは最近全く見かけません。

特に私の住んでいる辺りではその通りなのです。

 

かつて私もサラリーマンだったころ、自分の勤めていた英会話学校で人事規定の改悪が提示され、私はとてもそれを不当だと感じ、役員から提示があった時に断固として抗議しました。

しかし多くの先輩労働者たちは何も言わずにただうつむいているだけでした。

そのころから随分私は目を付けられたのだと思います。

その後、いろいろなことがあったので結局私はその会社を退職しましたが、労働組合の組合長にそのようなことを話して「一体どうしたものか。」と相談したところ、彼からは「会社の役員の皆さんはとてもいい方々でお人柄もいい方々なのでお願いすればわかってくださるんじゃないですか?頼んでみたらどうですか?」と。「おまえはアホか。」と私は一喝しました。

労働組合長が言う言葉か、それが。

とても馬鹿馬鹿しくなって私は電話を切り、会社を辞めたのを覚えています。

 

しかしあれから二十年近く経ちましたが、ますます日本では当時よりも状況は悪くなり、今では形だけ労働組合があってもほとんど使用者に対して対等に要求をするなどといった状況にはなっていないところが多いのではないかと思います。

もちろん労使間の交渉というのは、いきなり対立的になるのが決していいわけではありませんし、話し合いですめばそれはとても素晴らしいことです。

しかしながら先ほどの教科書にも書いてあるように一人一人の労働者がバラバラに交渉したのでは、圧倒的に労働者の立場が不利なので団結することが法で保障されているわけです。

いわば権利としてあるわけです。

 

私の別のブログ「権利の行使とそれにともなう自己責任」において、人権ないし基本的人権というのは刀のさやに入った日本刀のようなものだと述べましたが、まさしくその通りで、使わなければさやの中で錆びついたりしていくのではないかと思うのです。

 

まさに今、使わないままどんどん錆がまわってさやから抜くこともできなくなっているような状態ではないかと思うのです。

いろいろな基本的人権についてそういった傾向があるのではないかと危惧していますが、特にこの「労働者の権利」についてはそのような印象を強く持っています。

 

今の時代、どこで働いている人もみんなそれなりに苦しく少しでもいい条件で働きたいなぁと思っているのは間違いありません。

ならばお互い団結してそのことを交渉していって実現していくようなことは何も悪いわけではありません。

それは「権利」として認められていることなのです。

我儘でも何でもないのです。

しかし、どうも日本人とりわけ最近の日本人はこのようなことを全く怠っているように思えてなりません。

 

そして一方で「困った世の中だ。」「ブラックだ。ブラックだ。」と嘆いてばかりいるように思うのです。

なんと考えてみれば愚かなことでしょうか。

組合運動というのは、先ほどの教科書にもありましたように一人一人が弱いのでバラバラで交渉しているのではいけないので団結するということが本旨になっています。

裏切らずに団結して組合としてまとまって使用者と交渉するということです。

しかし日本人と言うのはどうも昔から、他のブログでも再三論じているように「お上」とか「ご主人様」とか「雇い主」とか、そういった類の人種に対してとても遠慮深く、弱くそして歯向かうよりは、「他の仲間が歯向かっても私だけは言うことを聞きますのでちょっと上の待遇にしてください。」とか、団結して使用者に立ち向かおうと言っていたのに「やっぱり僕はやめときます。」とか、そういったことがとても多いのです。

他の国民に比べても特に日本人はそこが弱いと言われています。

ですから「雇い主」の方もそのことをよくわかっているので、「スト破り」とか「組合分断」といったことを間断なく行ってきたわけです。

「お前だけは出世させてやるから、ストはやめておけよ。」「ストを企んでいるのは誰か言ってみろ。そうしたらお前の賃金だけはあげてやる。」とか、そういった具合です。

(近年、大阪府下で橋下知事の指示のもとあからさまに行われとても問題視されていることです。)

 

事実、私の父も京都に本社があるとあるバッテリー会社に勤めて管理職をしていましたが、私が中学生のころいわゆる「組合潰し」の活動をしていたのを知っています。

休日ごとに工場労働者の中から会社側に密通してくれる男を選び出して、自宅へ来させ、そして「今、どんな計画をしているのだ。」「主なスト決行に向けて企画をしている人物は誰か。」などといったことを密告させたり、そして「組合活動なんかやめといた方がいい。会社はわかってくれはるみたいだからやめとこうよ。」とか、そういった反組合的なオルグ活動をしてくれたら「お前を次、職長にしてやる。」と言うようなそういった裏工作をしていたのです。机に向かって勉強している私のすぐ横でです。

私は、とても薄汚い連中だなと思いました。

その男もそしてもちろん、自分の父親もです。

本当に自分が情けなくなりました。

こんな奴の息子なのかと。

 

けれども日本人というのは、みんなそういった弱さを持っているように思います。

もし、ストが今の時代、決行されるようなところがあれば、間違いなく「自分たちも苦しいけど忍従してブラックで働いているのに、なんであいつらだけあんなことをするんだ。あれはきっとアカだな。」とか「左翼だな。」とか、「迷惑をかける奴らだな。」と言ったそういった見方をする人が多いのではないでしょうか。

つまり、ストに対しての反感です。

 

こういった状況が社会に蔓延していると、ストライキ自体も上手くいきませんし、分裂やスト破りといったものも容易に起こってくることは想像できます。

使用者の方としてもその辺りをよくわかっていて、強気で臨んでくるはずなのです。

細かいストの規定やいろいろなことについては今この場で論じませんが、とにかく私が思うのは「スト」というのは団結が大事でそれを見守るような社会的環境がないとうまくいかないということです。

 

そういった意味で戦後しばらく大変な労働争議が盛り上がりを見せた時は、社会自体がそういった風潮だったのです。

いわゆる「2・1ゼネスト」前後の日本の状況です。

私が「2・1ゼネスト」のことを初めて知ったのは中学生のころでした。

それが日本の戦後にとって大きな分岐点だったのだということは、中学生ながらに強く感じました。これは労働者の抜本的な待遇改善を目指して全国の100万人単位の労働者が団結し、統一ストを行い、吉田内閣を打倒して労働者の政権を樹立するための闘いでした。

マッカーサーの強権的な指示により中止させられたのです。当時の委員長の伊井弥四郎が涙ながらの中止演説をしたというのは有名な話ですが、私はそのことが悔しくてなりませんでした。「伊井の腰抜け。馬鹿野郎。」「どうして命をかけてでもスト決行を叫ばなかったのか。根性なし。」と。

その日以来、この思いは今も変わっていません。もしあの「2・1ゼネスト」が決行されていたら、今のブラック社会も使い捨て労働もおきなかったのじゃないかと。日本人はあの日、大きな「宝物」をつかみ損ねたのだと思います。それは単に賃上げという経済的要求ではなくて、国民がこぞって団結すれば国民の力で国家を動かせるのだ、そして政治を変えられるのだという主体意識です。

そんな自覚と自信を持ち損ねたまま21世紀まで日本人は来てしまったのだと思うのです。

あの「2・1ゼネスト」の日以来。

 

そのような労働運動が高潮していたような時代にもう一回いきなり戻るとは思えませんが、もう少しせめてきちんと法定されているような権利を行使してまともに団体交渉し、そして決裂したならば「スト」に入るようなことぐらいが当たり前の行為として別に反社会的な行為でもないのですから、社会的に認知されるような雰囲気が出てこないといけないと思います。

 

今はとても「スト」など打ちにくい状況にこの社会があるのではないかと思うのです。

そんな中でもがんばって「スト」を決行しているところはあります。

労働戦線を再構築して戦おうとしている人たちはいるのです。

自分たち自身も苦しいのだから、段々と自分たちもそのようにして立場を改善していけるような運動をすればいいのに、自分はそれをやる勇気はないからそういった人たちを「あいつらはアカだね。」「我儘な奴だ。」「仕事もしないで迷惑をかける奴だ。」といったそういった見方をしているようでは社会は何もよくならないと思います。

今、いきなり一緒に戦うことはできなくてもまず反感からとりあえずは傍観する姿勢になり、傍観したところから次に共感できるように理解を深め、そして協調できる人間になり、最終的には共闘していく、こういった段階を我々は踏んでいかないといけないのだと思います。

 

例えばかつては私鉄の「スト」がよくありました。

今、もし私鉄やJRで「スト」が起きたら「何だ。困ったもんだ。通勤にも事欠くし。勝手に労働組合なんか作って、ストなんかやりやがって。ちゃんと電車動かせばいいのに。あんな奴らは反社会的だ。」と反感を持つ人が多いかもしれません。

しかしこれでは何も始まらないのです。

まず、自分たち自身も困るかもしれないけれどもそれを「あの人たちはがんばってストをしているのだから。今日は不便だけど我慢しよう。」とか、「代わりの何か交通手段を使って行こう。」とか、それに甘んじることがその人たちに協力する第一歩だと思って、反感を持たないように傍観できるか、まずこれです。

そして次に自分たち自身の会社が例えばビルの清掃会社をしているとか、自分たちがストをした時は逆にその時にストをしていた私鉄の職員の人たちがきっと私たちを暖かく見守ってくれるはずだ、「がんばれよ。」と応援してくれるはずだ、とお互いの会社の組合員がそんな風に思い合えるような世の中になれば「スト」はうまくいくはずなのです。

(そもそもいきなりストが起こるわけではないのです。いくら交渉しても満足できる回答や誠意ある返答を使用者がしないのでストに突入するわけです。もしストが起きてあなたに迷惑が及んだとしたらその原因は、まずその会社経営者にあるのです。この辺りをまず理解しておくことです。)

 

第二次世界大戦の直前にヒットラーの侵攻を懸念したフランスの政府は独仏国境付近にマジノラインという要塞の防御線を建造していました。

国防のためのとても大事な作戦だったのです。

しかしそのマジノラインの建設は、建設作業員の労働条件の問題で労働争議が起き、建設が長引いたので開戦に間に合わず未完成のまま開戦を迎え、フランスはあえなく大敗を喫したということがあります。

今の日本の感覚で言えば「なんと非国民な連中だ。」「それこそ反日だ。」「処刑すれば」などということになるのかもしれませんが、私は思いました。「やっぱりフランス革命の国。人権宣言の国は違うんだな。」と。

国防の問題はまた別論としてもそれほどまでに徹底しなくとも日本人も少しは「スト」が決行できるような社会を実現していかなければいつまでも「ブラック」は終わりません。

 

労働組合運動とかストと言うのは何も共産党とか共産主義の専売特許ではないのです。

ごく当たり前に働くものすべてができることですし、また時にはやらねばならないことなのです。

憲法第二十八条で「労働者の団結する権利および団体交渉その他の団体行動をする権利はこれを保障する。」ときちんと明記されているのです。

 

今日はあの「2・1ゼネスト」の日から72年目の2月1日です。

伊井弥四郎の馬鹿野郎。

 

安倍政権の目指すものとは?

 

これからこの国はどんな風になっていくのか?

どんな国家体制になっていくのか?

どんな政治になっていくのか?

 

とても不安だなと言う人もいます。考えてみなければなりません。

歴史の先例というものから学んで予測しなければならないと最近思うのです。

一体、安倍政権というのはこれからどんな風になっていくのか、果たして何を目指しているのか、前回も言ったように日本人は一体何を望んでしまっているのか、考えると暗たんたる気持ちになることもありますが歴史を少し考えてみると素人ながらに思い当たる節がいくつかあります。

それはアジアの三人の政治家です。

 

一人は朴軍事政権の朴(パク・チョンヒ)大統領。大疑獄事件で少し前に逮捕されたパク・クネ大統領の父親です。

もう一人はフィリピンのマルコス大統領。

そしてインドネシアスハルト大統領です。

 

朴大統領については軍事政権と言われたぐらいで軍隊の存在を前面に押し出して強権的な独裁的政治を行い、民主化のリーダーと言われた政敵であった金大中氏を秘密警察(KCIA)を使って日本から拉致・連行、監禁し世界中を震え上がらせました。

 

フィリピンのマルコス大統領と言えば戒厳令を布告し、20年近くの間強権的な政権運営を行うとともに「クローニー(縁故・取り巻き)資本主義」を実践し、利権の独占化を進めました。マラカニアン王宮はまさしく彼の宮殿とも言うべきで何千足も靴を持っていたという妻のイメルダが有名なことからもわかるように公私混同な国家費用を私財に投じ、贅沢三昧をしていたような王政ぶり。

 

インドネシアスハルト大統領は極めて親日家であり、今でも熟年層は良い印象を持っている人が多いと思います。しかし内面の顔は全く裏腹で数十万人から百万人とも言われる反政府主義者を次々と処刑し、「ソロ川の水が日々赤く染まった。」と言われていたことは有名です。また東チモールに対する血みどろの抑圧、その末での東チモールの独立ということがあったのは世界中で知られていることです。大変な強圧家だったわけです。(日本ではこういった彼の素顔はほとんど知られていません。共産主義政権であったカンボジアポル・ポトの虐殺が映画「キリング・フィールド」などとともに強くプロパガンダされて多くの日本人に印象づけられているのとあまりに対照的です。)

 

安倍政権を今、考えてみると前回も述べたように極めて情報操作というものに対して熱心であり、反政府的・反政権的な言論というものを共謀罪の新設など様々な手法で抑圧しよう、監視しようとしていること、また過去最大と言われている防衛費というものを計上し自衛隊を前面に押し出していこうという傾向、これはまさしく朴氏に類似しています。

また乱痴気騒ぎで有名な昭恵夫人の行状、国費で賄われている女性秘書を何人も使って豪遊しているなどといったこと。マルコスを思い起こさせます。

また強権的な手法で沖縄に対して抑圧的な政策を行っていることもスハルトまがいと言えます。

京産大をコケにして友人の経営する加計学園に特に恩典的な獣医学部開設を認可するなど「クローニー姿勢」が強くにじみ出ているのも上記の三人と共通しています。

 

こういったことから考えると、朴・マルコス・スハルト路線というものが浮かび上がってくるわけです。どうも長期安定政権で栄誉・栄華を極めた彼らに安倍氏は憧れているのではないかと思われるのです。この三人はいわゆる議会制民主主義というものを堅持し、「うちは民主主義国家である。」「自由主義国家である。」と標ぼうしてきたのです。

だから決して中華人民共和国北朝鮮のような「独裁国」ではなく「民主主義国家」の代表なのだと世界に対して言ってきたのですが、内政の実情は先ほど記した通りです。

 

しかし彼らと安倍氏が決定的に違うところがあります。

それは安倍氏は総理大臣であり、彼らは大統領であったということです。

安倍氏は間違いなく「大統領」になりたいのだと思うのです。

そのために内閣府を大統領府のような機能を持たせて肥大化させてきているではありませんか。

彼が目指しているのは間違いなく実質的な大統領制だと思うのです。

そのことによる権力集中と独裁化だと思われるのです。

その上で大きな一つのネックがあります。

それは何かと言うと、「大統領制」と「王制」は両立しないということです。

これは世界史における絶対的な原則なのです。

総理大臣と言うのは「王様」「大君」に使える臣下の中のヘッド・リーダーという意味。だから「総理大臣」なのです。大臣の中のリーダーに過ぎないのです。

ということになると大統領になるために日本では大変厄介なたんこぶがあります。

天皇制」というものです。

天皇制」があるからこそ日本は「立憲君主国」であるし「立憲議会制民主国」なのです。

しかし「天皇」という例え象徴的であれ「国王」がいる限り、決して「大統領」というものが生まれることはできないのです。

そこが彼のジレンマなのです。

だから彼は近年皆さんもご存知のように大変、皇室というものに対して冷淡です。

そして今の安倍氏の臣下である宮内庁もまた皇室にお仕えする身でありながら皇族方に対して大変ご無礼なことを次々と行っているのです。

「ははぁ。そうか。」と合点がいくところです。

彼はとにかく「天皇」の存在というものが厄介で仕方ないのです。

大統領制」にするためには「王制」というものは絶対に廃止しなければならないのです。

彼の大きなジレンマなのです。

皇室の方々もそのことをわかっているからこそ最近彼の行き過ぎたやり方に対して秋篠宮様が「国費で大きな支出を行って大嘗祭を行うのはいかがなものか。」と苦言を呈されて、「宮内庁聞く耳持たず残念。」と言った発言をされたり、また「平成天皇」も最後の記者会見に於て直接的に批判的なことは仰いませんでしたが、「沖縄の人たちの苦しみを決して忘れてはならぬ。」と言った辺野古をけん制するようなご発言や以前にも「朝鮮半島の問題については一回謝ったから済む問題ではない。」と言った趣旨のことを発言されたり、今の政権の強権的な政策に対してそれを諫めるようなお言葉を繰り返しておられます。

こういったことが安倍氏にとってみると厄介でうっとうしくて仕方ないのでしょう。

だから「天皇はただ祈っていればいい。」などという旨の発言をしたり、また彼の臣下のスピーカーとも言えるようなネトウヨは「皇后は反日だね。」などという意味不明なことを吹聴したりしているのです。

誠に困ったことです。

 

日本は果たして「大統領制」になるのでしょうか?

かの三人のアジアの先輩大統領達が極端なまでに親米派だったことも安倍氏と共通していますし、長期政権において強大な利権の固定化、既得権化というものが進んでその中で腐敗が進むことも共通していくのかもしれません。

そうなればとても困った事態です。安倍二十年政権???
上記の三つのアジアの国では人々は強権的な政権を倒し、民主政治を実現するために多くの犠牲を払い血を流したのです。それでも勇敢に戦い、自由を勝ち取ったのです。

その時にそんな勇気と力を日本人はこの国民は持てるのかどうか極めて不安に思えてなりません。

いったんそういった仕組みができてしまうと打破するのはとても困難なことです。

今からよく考えて我々は手を打っていかなければならないのです。

                 201812

安倍政権の人気の秘密

 

まもなく2019年を迎えようとしています。平成の終わりの年だそうです。

皆さんの周りには希望があふれていますか?楽しい一年でしたか?

来年に向けていいことが起こりそうでしょうか?だといいですね。

 

でも一般的にこの世の中を見てみると、相変わらずブラック労働とか、いくら働いても残業代をもらえない、

「働かないと食べていけない。私、子育てしているシングルマザーなのに。子どもを入れようと思っても保育園にも入れられない。そのことをちょっと訴えたら世間からたたかれる。」など・・・

国保税が年収の1/10以上になってそれだけで病気になりそう。」

「ガソリンちょっと一世代前、お父さんの若い頃は70円か80円ぐらいだったのに今はどうしてその倍もするの。聞いてみたら1リットル150円のうち、半分ぐらいの70何円かは税金なんだって。」とか一般に「逆進性」という言葉で表現されているように懸命に働いている勤労者層にかえって過酷で一方で資産運用など指一本動かさなくてもお金の入って来る仕組みを持っている富裕層に配慮した政策が次々と繰り出されています。

 

台風、地震原発事故後の放射能。いろいろな災害があるのに十分な手当てもされないまま期限が来れば「もう知りません。」と放置されたまま。そういった被災地も多いのです。

未だに手をつけられてないままのところもあります。(和歌山にある畔も飛び谷川の護岸が崩壊したままの私の水田もその一つです。)

それなのに一方で再来年には大規模なオリンピックが東京で催され更に万博もやると、そしてこの地元滋賀でもバブル国体というべき大予算の国体を行うということが報じられています。

「破産するんじゃないの?この国は。」と言う人も多いです。

でもなぜかそちらへ突き進んでいく。そういったことを標榜して推し進めていこうとする安倍内閣・安倍政権を引きずり降ろそうという気配はこの国にありません。

なぜでしょう?

 

今まで歴代の総理大臣には様々な特徴があったと思います。

「人間ブルドーザー」と言われ辣腕さと実現力とバイタリティーでならした田中角栄

冷静さと分析力、長々とした演説でプロフェッサーと言われた福田赳夫など歴代の自民党保守系の総理にもいろいろな特色があったと思います。

今の安倍晋三の特色、彼に特化しているものとは一体何なのでしょうか?

外交力があるわけでもなく経済政策はアベノミクスなどと言っていますが何の成果があったのか一般庶民にとっては何の実感もなく。

でも彼が歴代の総理大臣の中で特に特化しているものがあります。

それは何かと言うと、とにかく自分の評判を気にして悪口が出ないかということを細かく細かく調べてそれに対して反論することです。

そしていろんなことを大したことでもないのにそれが何だということを、いかにもさもありなんとばかりに大した成果をあげたようにアピールしていくことです。

そしていろいろな大変な問題があるのにそれをいかに上手く隠蔽していくかということです。

つまり一言で言えば「困った現状を見えなくしてくれる。」ことです。

これについては彼はとても天才的だと思います。

それ故に現政権やその取り巻きは日本の問題点をずばりえぐり出したような「万引き家族」に対してはいくらそれが世界で映画作品として不動の評価を得ようとも無視しできれば抹殺したいと思っているのです。

 

今の日本は考えてみれば経済も沈滞し、かつては「Japan as No.1」などと礼賛されたようにアジアの中でのNo.1と言えば日本であったことは間違いありませんが、今では「アジアの盟主は誰ですか?」と聞かれたら世界中の人が間違いなく「中国」という時代になりました。

技術と言う面をとってもいわゆるスマホといったものを買おうとしても「サムスンのはありませんがパナソニックのでもいいですか?」と日本の販売員自体が申し訳なさそうに言う時代になりました。

次々と発覚するスバル・シャープ・三菱自動車など大企業の不正隠し、世界的な日本の技術の信頼の失墜、この国の財政の累積赤字はとうに百兆円を超えているのです。

国民一人に対し65万円の借金をオギャーと生まれた子どもからご臨終間際の老人までしているようなものだという話が十年以上前にありましたが、今では実質さらに拡大しているのかもしれません。

株価というものを何とか支えながらまた落ちてまた少し上がってということを繰り返していますが、日銀が大量に株を買い支えているという現状は少なからず皆さんもご存じだろうと思います。

つまりやらせで今の経済を何とか上辺だけ高値のようにしているだけで実はポンと押せば倒れてしまうような床下が割りばしで支えられているような大豪邸のようなものなのです。

なんと恐ろしいことでしょうか。

いつその崩壊がやってくるのでしょう。

 

でもこういったことすべてを「大丈夫なんだ。」「経済は伸びているんだ。」などということをGNPの数値操作だけを行って示したり、「この国はまだまだやれるんだ。」(「シン・ゴジラ」に出てきたセリフですよね。)とか「希望のある国だからオリンピックができるんだ。」などということを言ったり、とにかく今の政権というのは都合の悪いことをひたすら国民に見せないで「大丈夫だから」「大丈夫だから」と言うことにかけては天才的だと思います。

でもこれは彼一人が悪いのではなくて私が思うのはどうも今の日本人が「これからどうしていったらいいのかわからない。」「どう変わっていったらいいのかわからない。」「でも今まで日本は頑張ってやってきた。昭和の時代は良かった。」「日本は中国よりすごい筈だ。韓国よりすごい筈だ。」「アメリカも日本がアメリカ以外ではNo.1だと思ってくれてた筈だ。」という幻想を、結構若い世代まで捨てられないでいるからなのでしょう。

そんな日本人のこれからの日本の未来に向かっての困った面やはっきりした現状というのを見たくない「逃げの心理」というものをうまくとらえて、そして「大丈夫だよ。日本は大丈夫なんだ。いい国なんだ。」という幻想を持たせてくれるのが今の総理大臣なのでしょう。

だから安倍内閣を日本人は引きずり下ろすことがないのだと思います。

 

しかしながらよく例えであるように破産しかけている破滅家族はバカ騒ぎのパーティーのようなことを何度も繰り返したり豪華な旅行を目先に繰り返してそのあげくに全員家族で首をつって自殺したとか一家が離散したとかそういったことは実話やまたいろんなドラマでも示されている通りです。

破滅家族には派手なパーティーが必要なのです。それが必須なのです。そうでないとやっていられないのです。そこに目を向けて「さぁそのパーティーに向けて準備をしよう。」「パーティーに向けて買い物をしよう。」「家の中も片づけてきれいにしてみんなを招かないと。」そういった狂騒曲をやることによってその後ろにあるみすみすわかっているような重大な局面から目をそらそうとしているのです。それがオリンピックであり万博だと思うのです。

その後に何が待っているのか。考えてみれば恐ろしいことです。

莫大な経費負担。それを間違いなく国民に転嫁してくることでしょう。もう「貯金」はない国なのですから。

一体、経済にどのような破綻が起きるのか。どのようなひづみが起きるのかわかったものではありません。(更に輪をかけて首都圏直下型大地震などということも以前から指摘されている通りです。)

 

福島の問題にしてもそうです。

甲状腺ガンの多発。いろいろな疾患というものが確実に増加しているのに「アンダーコントロール。元気にサッカーボールを蹴っています。」などと言ってオリンピックを誘致し、更には福島産のものを殊更に子どもたちに食べさせようなどとまさに子どもたちを「生贄」にしてでも「この国は大丈夫。」だということを国民に示そうということなのです。

 

破滅が迫っている危機家族の駄目なお父さんがやるもう一つの手法は、とにかくご近所の悪口・周りの悪口を言ってそちらに目を向けさせることです。

ほんのちょっと、隣のお家がゴミを出す時に自分のお家の前を汚したとか、そういうことについて難癖をつけ大きく文句を言い、「〇〇さんは困ったもんだ。いつもあの調子だ。」「あの人は行儀悪いんだ。ああいう人間性だから。あれが十八番なんだ。」こういったことばかりを言う。

そして逆に昔本当に都合悪いことがあっても、例えば「自分のところのひいおじいさんが〇〇さんのところの奥さんにちょっかいを出して大騒ぎになった。」というようなことをきちんと解決しないまま今まで続いているにも関わらず「いや。そんなことはうちのじいさんはしていない。していないはずなんだ。なのにそういう因縁をつけてくる嫌らしい家なんだ。」というようなことを言ってそれをネタに逆切れしてさらにその家の悪口を家族に何度も吹き込んでいく。

とにかく他人の悪口です。

 

目先の乱痴気パーティーと周りの悪口。

はっきり今の日本に当てはまることです。

後者の代表がいわゆる「ネトウヨ言論」というものです。

ネトウヨ」の実態というのはどうも若手の引きこもりじゃないかと思っていた人が多いのですが、最近の詳細な調査では実は50歳代を中心とした自営業者の小金持ちのいわゆる「町の社長さん」が多いというのです。なんと困ったことでしょうか。

仮にも人の上に立ち、分別のある振る舞いをしなければならないような人たちがこの有様というのは。

実際このようなネット上での言論を行っている個人がいくらかは存在するのだと思います。

でも私が強く持っている疑惑は、この「ネトウヨ」というのはそもそもは「官製品」ではないかということです。

初めにその手の部署のお役人さんが頑張ってスターターキャラクターを生み出し、それに阿寒湖のマリモが大きくなるように周りに付和雷同して似たようなことを言いだす輩がはりついて増殖してきたのではないかと思うのです。私はちょっと前にネット上で数十人もの人たちがパソコンを並べてひたすらそれをのぞきこんでいる情景の投稿を見たことがあります。そしてその投稿には「みな、この人たちは公務員。反政権的な記事をチェックしそれに反論的なコメントをつけていくのが仕事。自分もその一員だったけど。」とありました。この投稿の真偽のほどはよくわかりませんが、実際に内閣府に大量の人員を配置して日々ネット上に反政権的な言論がないかを巨額の国費をかけてこつこつとチェックしているというのは十分やっていそうな所業だなという印象は拭えません。

森友・加計問題、辺野古南スーダン自衛隊日報問題など政権にとって不都合なことを指摘するネット上の投稿がすぐさま削除されていることを頻繁に見かけます。

SNSの運営主体が全く政権の思うがままにコントロールされていて情報統制がなされている様は現政権の労作と言えます。

 

まぁそれはさておき本当に困った世の中です。

「メッセージ」に惑わされず「事実」を直視していかねばなりません。

そして破滅家族になってしまわないようにみんな勇気を持って、実際この国はどうあるべきかを考えていかなければなりません。

そして本当に駄目だと思ったらそんなお父さんに勇気を持って言わねばなりません。

「本当にこのままでいいの?もう私たちを騙さないで。」と。

 

                   201812

資本主義の末路

 


12月 26 日付の新聞紙上に「東証急落 2 万円割れ」という見出しが出ました。
米国発の世界同時株安連鎖で下落に歯止めがかからないと。
「ああ、また来たか。」というイメージを持たれたかもしれません。
最近何度も株価の大幅下落はありましたが、今回特に私は
「ああ、これはいよいよだな。」と思いました。
それは例のリーマンショック等々の具体的な引き金になるような事象がないにも関わらず、新聞でも論じられているように
「一般的な世界経済の成長鈍化を警戒する売りが広がったということ」
「弱気相場に入ったということ」
「悲観的な見方が優勢になったということ」
その基調にはいわゆる米中の対立による緊張ということがあるのかもしれませんが先行きの懸念いわゆる経済そのものに対するマイナス評価というものから大きな下落が始まったということです。
いよいよ世界的に自由主義経済・資本主義経済といったものが末期に入ったということの大きな証明です。
大変大きなクリスマスプレゼントだったわけです。

 

我々は一日も早く新しい長く継続していける秩序に達さなければなりません。継続可能な社会・エネルギーなどという言葉がありますが、そういう表面的なエコの問題ではなくて経済そのものの在り方を根本的に見直さなければならない時代に来ていると素人ながら感じるのです。
「いつか景気は良くなる筈だ」「景気は循環するものだ」というのがいわゆる当世の経済学者の論法かもしれませんが、そういった楽観的な見方にいつまでもすがっていても仕方ありません。

思い出すのは昭和天皇が病床につかれてその病状を毎日毎日日本国民が一喜一憂して窺っていた時のことです。「今日は陛下は若干の下血があって血圧が下がられた。」しかしまた次の日「若干回復されて血圧が上がられた。」「またちょっと血糖値が下がられて危険な状態になられた。」とか、しかしやがてはご崩御されたのであります。(と謹んで?ご報道申し上げます!)

今の経済もそういったものでほんのちょっと「上がった」「下がった」で一喜一憂していても「もうこれは駄目だ。」という根本的な見切りというのをつけないといけない時期に来ていると思います。
人間なら死んでしまえばお終いですが、新しい経済を作り替えることは自らの勇気と意志でできるのです。まさにそれに挑戦しなければならない時であります。
世界中が。そしてこの日本も。
具体的にどうすればいいのか。
いろいろ難しい問題もあるし、一般の人間が考えても仕方ないという人がいるかもしれませんが、やはり一人一人が自分の周りを冷静な目で見て、
「どうあって欲しいのか。」自分の意見・願いをしっかり持つこと、そしてそれを表明することがまず大事であろうと思います。
「偉い先生が言ってるから」
「経済学者がこう言ってるからこうらしい。」
「だからこうしか仕方ないらしい。」
そんなことを言っては何も新しい未来・希望のある未来はやって来ません。
みんな、こうして欲しいなら「こうして欲しい。」「こういうのはどうだろう。」
声を出すことです。
そしてその声を束ねていくことです。
その中で新しい考え方や正しい考え方がやがて出て来るものです。
それを専門家が具体的な政策にしていってくれればいいのです。
我々一人一人がそういった姿勢を持って来なかったことがこの国の政治も経済もこういう状態にしてしまった大きな原因であろうと思います。
では具体的にどうすればよいのか?
今のいわゆる自由主義経済・資本主義経済というものは安価な労働力に支えられているというのは間違いないことです。
かつてから言われてきたように「機械は利益を生まない。」その通りです。
「利益を生むのは人間だ。」その通りなのです。
人間がどうやって利益を生むか?
労働力というものをいかにして利益が出るように調達するかというのがその大きなファクターであります。つまり安い労働力をいかに調達して、効率の良い労働をさせて製品を大量に安定して生産するかということなのです。
今、大きな一翼を担っているのがアジアの人たちです。
「後、十年や十五年はいわゆるプアーレイバーというものが期待できるから、その利ザヤで儲けられるから大丈夫だ。」といわゆる総研系の経済学者がいろいろなところで意見を出してきましたが、アジアでも日本よりも「労働者の覚醒」というものから賃金の底上げというものが今まで思っていたより早い時期にやって来ているようです。
プアーレイバーによる利ザヤというものもあまりこれからは期待できないのではないかなと危惧されています。むしろこれはあるべき姿として受け入れないといけないことなのでしょう。
断末魔にのたうつ野獣や妖怪のようにこの経済というものは何とか成長を確保しようとしても成長が確保できないので利益を出すために人間を食い始めていると思います。
つまりどんどん拡大生産して販売増加というのができなければいかにして生産コストを下げるかいかにして原料費を下げるかということが問題になりますが、インチキな材料や偽物を売るわけにもいかないわけです。となれば下げられるところと言えば労働力しかない訳です。
徹底的に利益を出して搾り取れるのははっきり言って労働力しかないのです。
これは普遍の真理です。
だからこそ「ブラック」であるとか、「過重労働」とかいったようなことがまかり通って来ている訳です。
「16時間労働」とか
「3 か月一度も休みなし」とか
「それでも残業代は0とか」
こんなバカなことがあるかということが段々とまかり通ってきている訳です。

更には、乳幼児や低年齢者のようなまだ健やかにただ健やかに育てればよいような人たちにも、早い内から
「こういうワクチンを打て。」
「こういう注射をしろ。」
といったことを次々とまことしやかな理由をつけて勧め出したりして、人間そのものを商売の対象にしていこうということが医療や保健と言った命に関わるような分野にまで染み渡ってしまって、人間を金儲けのネタにしようという悪質な手法がこの国では次々とまかり通っています。

また少し考えてみれば「有害だな」と思うようなものでも目先の利便性・小綺麗さとか、ちょっとしたストレス解消のようなものを商売文句にして次々と売りつけるような手法がまかり通っています。
ディスカウントスーパーやドラッグストアに行ってみたら「どうしてこれだけ大量の何十種類もあるようなシャンプーが必要なのか」と驚かされます。
エコカーと言うけれども二回や三回目の車検を経ることなく廃車にしている車がとても多いようです。
大型のバッテリーの処理は一体どうなっているのか。
エコカーと言いながら金儲けのネタにして実際は全くエコでない。
考えてみれば後先考えずに何とか目先の利益を確保しようということばかりで未来に大きな負の遺産を残すようなことばかりをこの国はやっているように思われます。
その根本にあるのはこの経済の在り方というものだと思います。
では一体どうすればいいのか?ということです。
基本的には
「やはりこれから少しでも消費と言うものを減らして小さく回っていく。」
この一言だと思います。
そして環境に負荷をかけることを少しでも少なくして人間として健やかに生きていける国に少しでも近づくようにこの国の在り方を変えていくことだと思います。
もう今の日本は成熟社会です。
それならばそれに見合ったような国になっていかなければならないのに、60 過ぎて、70 過ぎてからもう一回 20 代のような筋肉をつけようと筋トレをして怪我をしているアホな年寄りのような真似をしているのが今の日本です。
「1970 年代にできたのだからもう一度できるはずだ。」
アナクロニズムの極みというものです。
それがいわゆるアベノミクス政策だったと思います。
では一体どうすればいいのか?
一朝一夕に答えが出るようなことではないと思いますが、基本的にはやはり安定的な必要最低限の生産を行っていく、必要のないものは生産しない。ということを考えて一種の計画経済的な要素を取り入れていくことともう一つは貧富の差を解消するために大幅な所得の再分配政策をとることだと思います。
前者の方は言ってみれば長期的な経営というものを行政が大企業に対して抑制的な手法を推奨して指導し、むやみな拡大生産に対しては重税をかける等を行い、そして緊縮的な金融政策を取ればある程度実現していけることです。
後者の方についても一様に私有財産の撤廃などをしなくても累進課税制度をさらに推し進め、そして放置している山林とか長年放置している不動産といったものに対しては重税をかけるとか一定以上の耕地不活用があれば自動的に国庫に帰属するといったような法制をつくるなどいわゆる税制改革や土地政策を行っていくことです。
富めるものに対してさらに手厚いような現在の政策を改めて、富裕層に大幅な増税をしていく。更には株式売買や資産運用による利益といったようないわゆる不労所得・家賃収入といったものにたいして高率な税金をかけることによってそういった利得を現実的に行えないようにする。その富を低所得者や非財産層に対する大幅な減税や各種の福祉政策を充実させることによって実現可能だと思います。
「なんだ、それは共産主義のようなものじゃないか。おそろしい奴め。」
という声があるかもしれませんが、
何も「すべて企業を国有化し、私有財産をすべて撤廃し、皆同じような平均的な住宅に住め。立て替えて全て潰して。」
ということをしなくても現状のままで緊縮的な経済政策や拡大経営をすれば利益が国庫帰属してしまうような政策を企業に対して行い、税制制度を大胆に改革すれば現状の私有財産制度や企業制度を残したままでも社会主義的な国家を相当な度合いまで実現することは可能だと思います。
いわゆる社会主義共産主義に対するアレルギーというものをせっせせっせとこの国は作ってきました。自民党は作ってきました。
ですから皆、「計画経済」とか聞いただけで恐ろしいとまるで中世なら「ペスト」のように考えてしまう日本人が多いと思いますが、決して旧ソ連型の社会主義をその通り、再現するということではなくて今の時代のこの日本の社会に合わせた新しい形の社会的国家を作っていくことが絶対に必須だと思います。
アメリカでもご存知のように先の大統領選の予備選で旋風を巻き起こしたサンダースの主張などは一皮むけばほとんど共産主義です。そのサンダースの後継者のような人たちが地方選で保守系のベテラン議員を破って大勝利をおさめたということも報道されています。
大きな波は始まっているのです。
イギリスでも同様です。
アメリカ好きなアメリカ追従の日本ですからアメリカが社会主義的になったらほいほいと日本も社会主義的になるのは目に見えていますが、それは情けないことです。
この国で世界に先駆けた素晴らしい本当にすべての国民が安心して暮らせるような新しい社会主義ないし社会的な国家というものをこれからつくっていかなければならないのではないでしょうか。
そのためにはまず一人一人が上辺のプロパガンダやスローガンに惑わされずに身の回りにあることから考えてみることです。

本当に景気は良くなったの?良くなってないの?
暮らしやすいの?暮らしにくいの?
希望はあるの?希望はないの?
正義はあるの?正義はないの?
不正を許していいの?そのままなの?
まずあなた自身が問うてみることです。
あなたの未来の為に。そして子どもたちの未来の為にも。
              2018 年 12 月

日本人の無責任

 

日本の民主主義の現状は

「民主主義を実現したが民主主義でよい政治を実現できたか極めて疑問」

ということを少し述べてみましたがなぜそのような状況にいたったのか。いろいろな原因はあると思います。

 

最近特に感じるのは日本人はそのような状況を積極的に望んでいたとまでは言わなくても「まあいいか」と自ら招いてきたのではないかということです。

よく昔から言われることですが「政というのはお上がするものだ。」「大事なことは偉い人が決めてくれるものだ」ということをよく日本人は言います。

 

大化の改新以来、日本の国では幾度となく政変がありましたが大半はいわゆるクーデターであっていわゆる革命が起こったことは一度もありません。明治維新とてそうです。

そういう意味で月並みな言い方ですが市民的な自覚を持った個人というものが日本ではまだ一度も誕生していないのではないかなと思うわけです。

 

この近代化された世の中で何を言うとおっしゃるかもしれませんが本当の意味で自らが政治の担当者ないし主権者としての自覚を持っていろいろなことを考えて発言していく責任がある、時には行動する責任があるし発言したり行動しなければそれはとても無責任なことだ、義務を果たしていないことだと考えている個人が日本にどれだけいるかというと危ういことだと思います。

 

市民的自立、個人としての覚醒というものが日本で成されたということはまだ一度もないのではないかなと思わざるを得ないのです。

 

入管法や水道法の問題でも考えてみればとても困ったことになるのじゃないか

外国人労働者ばかり増えて日本の労働者がますます圧迫されるのではないかとか

生活に大事な水というものが外国企業に握られたらどうなるのかなとか

少し考えてみればわかることですがそういったことについて積極的に発言したりまたそういった立法に反対するとあの人は反政府的だと思われたらこまるとか何か反対するとあの人は共産党だ(特に田舎では)というような傾向があり物言えば唇寂しといった風潮が多かれ少なかれ日本中で都会でも特に近頃は蔓延しているのかもしれません。

 

この安倍政権になってから特にそうなったのではなくてそもそも日本人は生来そういった根性を持っている弱い民族なのだと私自身は思います。

忍従・隷従は結構平気でご奉公や忠誠は得意であるけれども自分自身が主人公となってどうしても駄目な為政者は倒す・逆転するといったことは一度もやったことがない民族です。

 

いわゆる学生運動というものが過去にありましたが市民と学生が一緒になって本当の意味で政権を追い詰めるような事態というのは一度もなかったと思います。

カルチェラタン光州事件天安門事件(この3つ自体が何の意味か全くわからない若者も多いでしょうが)のような状況というのは日本では一度もなかったと思います。

 

パトカーがひっくり返されて燃やされているというのは外国でよくあることです。しかし日本では一度もありません。フランスでもイエローベスト運動が旋風を巻き起こしておりますがそのようなことが起こった場合に諸外国ではそれを困ったものだなと思っていても一種台風や災害のように時には起こってしまうもの、政治を浄化したり大きく正していくためには時にはやむを得ぬもの、として民衆もそれを受け入れている傾向があるように思います。

日本でもし同じようなことをやって放火とか車を壊すとか店を壊すようなことがあればそれは「過激派」だということで市民自体がそういった運動やムーブメントをした人を全員犯罪者として敵視するような傾向が恐らく間違いなく存在するのだと思います。

為政者もそのことをわかっていますから高を括って安心しているのでしょう。

 

日本人は国政というものを時の権力者に委ねている代わりにそれは為政者が決めたこととして、「偉い人が決めはったことだから自分には責任ない」という言って見れば責任逃れに馴染んできたのでしょう。

それによって少々間違った方向へ行ったりつらい思いをさせられたり忍従させられることがあってもむしろ自分が責任をとらなくていい方がいいと、そういった腹をくくって自らが発言しないことを旨としているような民族なのかもしれません。

私はそういう日本人がとても嫌です。そういう風に思うと自分自身が日本人であることもとても息苦しくなってきます。

 

最近若い世代を中心にとても温和な形での社会変革を目指す動きが私の近くにもあります。

昔のように突っ走る形ではないのでしょうがしかし一人ひとりは強い意志を持っているように感じます。これからそういった動きがどんな方向へ行くのか私も興味深いですし、また期待しています。

伝統的な日本流の「無責任」に少しずつ風穴を開けていかなければならないと思います。

                  2018年12月