強行採決と民主主義

 

前回、改正入管法の問題について考えてみましたがこの入管法といいいわゆる水道の民営化法といい最近国民の生活や社会に関わる重要な法案が次々とほとんど十分な審議もないまま強行採決という形で国会で可決されています。

 

これは最近の重大な傾向だと思います。

 

よく日本は民主主義の国だからいいけど北朝鮮ベトナムとかキューバなど社会主義国一党独裁の国だから社会が危ういとか民主主義はないとかそういった声をよく聞きます。

実際ベトナムハノイ大学で経済学を講しておられた方から「日本は多党制だからいい。」「ベトナムも早く共産党一党独裁から抜け出せばもっと民主的な国になるんだ。」ということをおっしゃっていたのを思い出します。

 

しかし私が最近強く感じるのは今の日本のいわゆる議会制民主主義ないし代表制民主主義というものが本当に民主的な政治の運用になっているのかどうかこれはとても疑問だということです。

先程の強行採決の例のように自民党の圧倒的多数と野党の分裂という状況の中でほとんど自民党側から上提すれば強行採決という形で法案を通すことができる。いくら野党の方から自民党に反対するような法案を提してもにべもなく否決という状況が何年も続いています。

 

実質上はほとんど一党独裁と変わりません。

何もかもめちゃくちゃに同一視して論じるなと言う声は当然厳密に政治学的な用語とか定義を重視する立場からすればあるかもしれませんが実質的にはほとんど一党独裁と変わらない状況だと思います。

 

よく「民主主義を実現しないと」と我々の先輩は言っておられたのを思い出します。

選挙があるごとに「君選挙に行ったか?」「ちゃんと選挙に行かなあかんぞ。」

反自民のような方々からも「選挙に行かないということは自民党に与するようなことだから選挙に行ってくれたまえ。」などということを聞かされたことがあります。

今の公職選挙の在り方そのものについても私は疑問に感じることもありますのでまた別の機会に論じたいと思いますが、確かにこういった選挙を通じた代表民主制というものがあるから日本は民主主義的なんだという固定概念が日本人にはあるようです。

枠組み自体は議会制民主主義というものをきちっと履行している訳でありますがよく使われる例えの通り、道具と目的は違うということです。

形式と本質は違うということです。

 

日本はどうやらよく象徴的に言われるように

 

「民主主義を実現したが、民主主義で良い政治を実現することには失敗した。」

 

これは私も共感できるところです。

料理に例えて言えば、とても立派な食器やカトラリーを用意してその上に腐った料理を盛りつけているようなものです。

これならばいくら粗末な食器でも身体に良い美味しい食事が盛り付けられている方がよほどましというものです。

日本の今の状況はそんなものじゃないかなと実感せざるを得ません。

 

果たして枠組みだけは民主制がきちっと整備されていて中身がそのような状態が良いのか、それとも志の高い一部の人たちや独裁者が素晴らしい善政を行っている方が良いのか、これはとても微妙な問題です。一長一短だと言ってしまえばそれまでですが、とても微妙な問題だと思います。

 

そんなことは微妙な問題ではない。

独裁制など悪に決まっている。

民主主義が良いに決まっている。

 

と信じて驀進してきたのが昭和世代だと思います。

 

しかし今、この時代苦しい生活を強いられている勤労者層、若年層にしてみれば素晴らしい独裁者の出現を望んでいる人が少なからずいるのかもしれません。

昭和世代の(シニア民主主義)など全く宛にならないと・・・

果たしてそれが良いのかどうかこれからどのような形で日本の民主主義は進んでいくべきなのかとても大きな重要な問題だと思います。

                 2018年12月