愛国心シリーズ第1回「あゆと愛国心」

 

愛国心とは何だろう?」シリーズ第1回は「あゆと愛国心」です。

「あゆと愛国心」と言っても浜崎あゆみも、もしローラと同じように「辺野古の海を守れ。」と言ったなら「反日だ。」とかそういう話ではありません。

川魚の鮎のことです。

 

魚偏に占うと書く「鮎」という魚は、海や琵琶湖から春に遡上して上流で大きくなり、そしてまた秋になると川を下って次代に生をつなぎ死んでいくことから一年限りの魚ということで「年魚」と呼ばれたり、また天然鮎の素晴らしい香りは川魚特有の生臭さは全くなく、まるで西瓜や瓜のようなので「香魚」と呼ばれたりもしています。

 

その生態は他の川魚とは異なり成魚になると川の底の石についている藻類だけを食べ、そのなわばりを守るために侵入してきた他の鮎を排撃して追い出すことから、それを利用した「鮎の友釣り」が日本では昔から行われてきました。

 

実は私自身この「鮎の友釣り」をもう何十年も行っています。

この漁法は大変特殊で餌をつけて鮎を釣るのではなく、鮎のなわばり意識を利用しオトリ鮎を仕掛けの先にハナカンでとりつけ、野鮎のなわばりへ侵入させます。そして侵入してきた敵であるオトリ鮎に向かって体当たりしてきた野鮎が掛け針にかかって釣獲されるという漁法です。

「オトリがけ」とも言われているこの「友釣り」という漁法は世界中探してもどこにもない釣りで非常に繊細で川を見る目や技術を要するものです。まさしく日本の伝統漁法の一つです。それが日本特有の美しい風土や長く受け継がれてきた伝統・技術を土台にして成り立っているのは間違いのないことです。

 

またこの鮎というのは大変郷土色とも関係が強く、各地で「やはりうちの川の鮎が一番。」という意識が強く「坂東太郎の鮎が一番。」とか「白神の黄金鮎は日本一。」と自慢したり・・・

私は京都出身ですが、京都人は皆、例外なく「日本一北桑(北桑田郡)の献上鮎。やはり周山(上桂川)の鮎が一番。」などと言い、それを自慢してきました。「周山の鮎は焼いても口を開けたりしいひん。」品位のある一級品と自画自賛してきたようです。(ちょっと笑えますが。)

いわゆる祇園貴船などで夏に川床などで出される高級料理の主役としての地位を保ってきたわけです。

 

私自身根っから鮎が好きで鮎の友釣りが好きなのです。趣味でなく私の夏場の副業です。

このとても技術を要するけれども奥深く、日本独自のこの漁法を心から私は愛しています。そしてあの美しい魚体、食べれば何とも言えないあの独特の「sweet fish」という英訳でわかるような甘みのある風味、キモの苦さ、夏の暑さを吹き飛ばしてくれるようなあの独特の食味などとても言葉では例えられないようなものです。

養殖鮎とは全く一線を画し、別の魚です。(養殖鮎は焼けばイワシのにおいがします。)

鮎と私がここで言っているのはすべて「天然鮎」のことなのです。

 

このように日本独特の古来からの漁法というものを愛し、そしてそれが成立するような日本の風土というものを愛しているというと「あなたはとても愛国心の強い人なのね。」と人から言われることもあります。

事実、私はこのような釣りが成立するような日本の川・自然というものを心から愛していますし、それが次代までも受け継がれるように我々が守っていかなければならないと思っています。

この思いはとても強いものです。

 

でもこれがすなわち「愛国心」というものなのか、どうなのか私はよくわかりません。

 

この鮎という魚は実は天皇家ととても縁の深い魚なのです。

かの昔、いわゆる神話の時代に皇室の御先祖である神功皇后新羅遠征の前の熊襲征伐を行った時に果たして進軍が上手く行くかどうかを占うために竿に糸をつけ川に放ち「この鮎が釣れれば上手く行くだろう。」ということを占ったと言われているのです。首尾よく鮎が釣れ上手く行くだろうということで軍を進め、征伐は上手く行ったという逸話からこの魚は魚偏に占うと書いて、国運を占う「鮎」という名前になったのです。明治天皇もとてもこの魚を愛してよく食したと言われ、そういったことからもこの「鮎」という魚は日本の魚として国民の間に広く定着し、夏の和食の中心としての地位を占めてきたと言えます。

 

しかし先ほど述べましたように果たしてこういった日本の自然そのものを心から愛し、それを好む心というのがそのまま「愛国心」なのかどうなのかこれはよくわからないことです。

いわゆる「愛国心」というものがあるのならばこういった日本の自然といったものを愛する心がその根底とか基礎になっているんじゃかないかという一応の憶測は成り立ちますが、果たしてこの自然といったものへの「愛」そのものが「愛国心」と言えるのかどうかはちょっとわからないところです。

 

日本の山が好きでひたすら登山好きな人は皆、「愛国者」なのか。

私のように友釣りの釣り人は皆、「愛国者」なのか。

棚田の田園風景を好んで撮っているカメラマンは皆、「愛国者」なのか。

よくわからないところです。

 

「国破れて山河在り」というのはかの有名な中国の詩人、杜甫の言葉です。

国家というものが戦で崩壊してもきちっと自然さえ残っていればまたやり直せるものだということを示した言葉だと思います。

 

美しい自然、健やかな自然といったものが国を営む上で大事な基盤であることは疑いようもないと思います。それは国民そのものを支える一番大事な部分だと私自身思うのです。

美しい空気、美しい水、そして美しい大地。

こういったものを大事にしかけがえのないものとして愛していく心、汚してはならないと誓って実行していく心、こういったものがとても大事で言ってみれば「愛国心」なるものの「基礎」であるような気はします。そう考えると「水道法」によって貴重な水資源が海外の資本・企業によって左右される可能性を招来するというのはいかがなものかと思えてなりません。

 

いわゆる高度経済成長以来、我々はこの国の自然というものを次々と消費の対象としたり、また汚したりしながら経済成長を続けてきました。

一時期程、甚大な公害の汚染はなくなったと言われていますが今でもすべての問題が解決したわけではありませんし、むしろ身近なところを見ていますと琵琶湖の水質などは年々悪くなっていく一方のような気がします。「滋賀県は環境県だから」とか「環境派知事が守ってきたから」とか言っていかにも琵琶湖の水質が保全されているような幻想を抱いている他府県の方がおられますが、現状は全くそうではありません。特に琵琶湖大橋より南の南湖の辺りを訪れてみてください。暑い時期になれば湖岸に立つのもためらわれるような悪臭。外来性の水草で全く出入りできなくなった漁港。突然全滅した烏丸半島(琵琶湖博物館)のハス群落。そしてまるでマンホールの中をのぞいているような湖水の様子。とても健やかな琵琶湖とは思えません。

日本中どこでもすべてとは言いませんが、環境問題がきちんと解決し健やかな国土になっているとは言えないのが現状です。

 

これによって鮎自体も数が減ったり、昔のような質のいい鮎でなくなったり、小型化したり、また時には絶滅したりしているところも多いのです。

 

環境全般について論じるのは時間がありませんが、私の住んでいる滋賀県では近年、琵琶湖の天然鮎の産卵量は例年の平均の1/50しかないということが県の水産課によっても認められています。1/50です。ほとんど絶滅寸前といったものです。

その一因はどうも琵琶湖の環境の変化にあるようです。

孵化した稚魚がしばらく育つため必要なプランクトンが外来性プランクトンの繁殖によって激減し、いくらたくさん卵を親鮎が産んでも生まれた稚鮎が育たないで死んでいくというのです。

県の水産課に聞いたところ、人工河川などを作って養殖鮎を放流したりして産卵を増やして対策しているから何とかなるだろうと言うのですが、いくら援軍を送ったところで食べるものがなくて皆、死んでしまうのならば何の効果もないと思われます。

状況は大変悲観的です。

 

また海から遡上してくる海産鮎をとってみても私が近年主漁場としてとても質のいい鮎がいるというので大事にしてきた嶺南地方(福井県南部)の若狭湾にそそぐ南川ではここ23年海からの遡上が激減し、天然鮎が絶滅に近い状態となっています。大河、九頭竜でも同様です。

日本全国すべての鮎がもちろん絶滅したわけではありませんし、放流等々の方法によって少しでも保全していくことは可能だと思います。しかしながら各地で昔に比べたらとれなくなったとか、数が少なくなったとかいうことはいろいろな河川の釣り人から私も伝え聞いています。

神宮皇后の故事からすると、鮎がこれほどまでに姿を消しているというのはまさに「日本も国運尽きたり」ということを鮎が警告しているのかもしれません。

日本の国土を大事にしないで放射能の危険を承知で次々原発を再稼働して目先の利益を得ようとか、、ひたすらダムばかり造ってその場の土建事業で儲ければいいとか、乱開発で山肌を削ってでもメガソーラーをつくればいいとかそういった発想というものはそもそも「愛国心」に反するのではないかと思えてならないのです。

 

かつて川で出合う大先輩である老釣り師たちは「あんたらこれから何十年も鮎釣りできてええなぁ。わしはもうあと何年もないけど。」とよくおっしゃっていました。

彼らは恐らくこれから先、自分が死んでも日本の鮎は毎年川にやってくる、そしてこの友釣りは引き継がれていくということを確信しながら引退していかれたのだと思います。

その意味ではとても幸せなエンディングだったのでしょう。

目の前で鮎がいなくなったということを体験しなければならない私の世代、これはとてもショッキングなことです。

これまで営々と引き継がれてきたこの日本の美しい山河。そしてそこに育まれてきた美しい魚たち。こういったものを子孫の世代までも伝えていく責任が我々にはあるでしょうし、こういったものへの「愛」というもは決して欠いてはならないものだと思います。

 

原発運動を行う市民団体に対して「反日だね。」「のんきなお花畑野郎どもで愛国心の欠片もないね。」などといったネット上の書き込みがよくあるようですが、彼らの言う「愛国心」とは一体何なのでしょうか。

1回目のお話は「あゆと愛国心」でした。