父親不在の「エコ」の行方

「エコブーム」「オーガニックブーム」などと言われて久しくなりますが、いつ頃から始まったものなのでしょうか。我々が自営業を始めた15年ぐらい前でも「オーガニック」を唱えているとまだまだ世間の人もよく意味がわからなかったように思います。

 

「エコ」とか「オーガニック」とかいう言葉は間違いなく例のバブル崩壊後、いわゆる不況が基調になってからポピュラーになってきたのだと思います。

「自然志向」とか「無添加」とか「無農薬」とか「身体にやさしい」「地球にやさしい」「自然にやさしい」などといったスローガンのもと、自然食品がもてはやされたり、有機野菜がブームになったり、オーガニックコットンが着心地いいなどと言って高くても買ったり、オーガニックレストランなどができたりしてきました。

 

京都でもいわゆる自然食品のお店に長蛇の列が出来たり、よつばやオルターなどオーガニック系の食品の供給組織がにわかに会員を増やしたりして結構なブームになってきたものです。

その後、いわゆる3・11福島の大事故があったことは記憶に新しいと思います。

ああいった事故があって、その後環境の大切さとか健康の大切さといったものを日本中が痛感したはずですからそこから一気にオーガニックブームとかエコブームといったものが高まるかと思いましたが、そう思いきや私の印象ではかえって3・11後しばらくしてからオーガニックブーム・エコブームは以前にも増し下火になった気がします。

 

2008年のリーマンショックを機に空前の徹底的な不況が日本を覆っていました。その頃からそれまで好調だった自然食品の売れ行きが低下し、いくつか京都でもできていた自然食品店がお店を閉めたり、私も加入していたある自然食品系を扱っている配給組織は大変な会員不足にあえいで窮地に立たされたりといった事態も出てきました。そんな中での3・11でした。

 

考えてみればとても疑問なことでなぜこういった環境の大切さを認識させられるような事故の後、オーガニックブームがかえって盛り上がらなかったかということですが、私が思うにやはりこの日本の「エコ」とか「オーガニック」というのは文字通りブームであって本物ではなかったのではないかということなのです。

 

バブルの頃、「ジュリアナだお立ち台だミニスカだ。」と言っていたのが「もうそんな時代じゃない。ロハスが気持ちいい。」と言って生成りのカットソーのオーガニックの服を着たり、農園ファッションをして麦わら帽子をかぶったりというように言ってみたらファッションは変わったのだけれどもそれだけのことだったような気がするのです。

 

身体にいい・気持ちいい・優しいなどというムード的なこととや車についてもバブルの頃はハイソカーだのフェラーリだの言っていたのが、「これからエコの時代だからエコカーだ」と言ってみんなハイブリッドカーに乗るようになったのではありますが、そのハイブリッドカー自体も2回程度の車検を経て多くが廃車しているとか、考えてみれば全く実際のところはエコではないのだけれども単に低燃費だからとか、「今の時代ぶっ飛ばすような車に乗っていたら時代遅れだと思われる。」「こういった車に乗ってる方が上品な人だと思われる。」とか「賢そうだと思われる。」そう言って乗っている人が多かったように思います。

本物ではなかったのです。

 

慢性的な不況というものを基調にしてそれまでのいわゆる「イケイケな」ブームから「地味な」ブーム、環境に優しいとか上品なテイストのものが好まれるようになったのでしょうが、これはあくまで流行とかテイストの問題でロングスカートがいいかミニスカートがいいかといったことと似たようなものだったのではないかという気がしてならないのです。

 

エコグッズ・エコファッション・エコカーなどと言いますがすべて究極のところは金儲けのための新しいトレンド商品であり、「エコ」なのか「エゴ」なのかよくわからないものだという印象を持っています。

この地味なブームないし流行というのは不況とか低成長時代にこそ似合うものであって、言ってみたら慢性的不況といったものを成長の土台ないし環境(母なるもの)として生えてきたキノコのようなものだったような気がします。

 

しかしながら、例えとして悪いのかもしれませんがどうも私の印象ではこの日本の近年の「エコブーム」「オーガニックブーム」というのは言ってみればなんとか子どもを養おうという気弱だけど優しいお母さんはいるのだけれども背骨になってくれる強い父親がいない母子家庭のような気がするのです。(母子家庭でも父子家庭でも構わないのですが)

持続可能とか未来の為にとか色々なスローガンを唱えてはいるのですが、何故「エコロジー」が必要なのか「オーガニックな暮らし」が必要なのかということ、その本質そしてそうしようと思っても社会の大勢はそのようなものではない、そうはいかないこの世の動きは一体何が原因なのか。そしてそれに対してどのように自分たちの暮らしや命をディフェンスして健やかに自らを保全していける、そして未来に健やかな種を残していくべきなのかと言ったことの根幹になるような思想が抜けているような気がするのです。

 

よくエコとかオーガニックがいいという方の唱える「持続可能性」という言葉ですが、「石油文化は持続可能でないから持続可能なエネルギーに切り替えるべきだ。」とか言うのですが、例えば小規模水力発電を作って「持続可能だ。」と悦に入っていてもそのタービンの部品を取り換えるためにはやはり部品供給会社が永続していかねばなりません。もしそれが壊れてそれを生産してくれる会社がなくなったらたちまち持続可能でなくなるわけです。

持続可能な農業、有機農業など言いますが、持続可能な飼料としての鶏糞や牛糞、畜糞といったものがいいと言うのですが、そういった畜産業というものが永続するかどうかそんなことも言ってみればわからないことなのです。

 

一方で石油文明は困るということですが、抑制的に使っていって消費量を減らせば新しい油田も年々いくらかは見つかっているわけですから逆に先ほどの「小規模水力発電」よりも却って持続可能かもしれないのです。

どうも「スローガン」や「言葉」だけが空回りしているような気がしてなりません。

 

エコなもの、オーガニックなものを新しく作り出すことに熱心でありますが、いくらエコなグッズ、装置であっても新しく作り出せばそこにいくらかの地球に対するインパクトが生じることは間違いありません。

考えてみれば原発に代わる発電として素晴らしいと言っていますが、太陽光発電にしてもその通りです。あのパネルを作るのにどれだけの環境負荷がかかっているのか、そして20年と持たないと言われているパネルが耐用年数を過ぎた時にどうやって廃棄するのか、誰も考えていないのです。なのに「これは素晴らしいエコな代替エネルギーだ。」と言って推し進めて「静かなる革命」などという映画まで作って悦に入っているのです。どうも疑問に思えてなりません。

原発で一儲けしようとする奴も太陽光パネルで一儲けしようと思っている奴も同じ人種だ。」と言っている人がいましたが、まさにその通りだと私も思います。

 

成長を目指していわゆる昭和世代以来続いてきた拡大経済、資本主義経済。なんとか景気をよくして難局を乗り切ろうと「景気回復こそ未来への道」と自民党はよく仰います。基本的にそういった方向で日本はやってきたわけです。世界のうち多くの国がそのようにしてやってきたのだと思います。

その結果様々な環境破壊がなされたり、過剰な生産がなされたり、

我々の身体にあまりよくないようなものでも目先の利便性や目先の快感、目先の面白さ、目先のおいしさのようなもので販売し購買をあげている製品がたくさんあります。それによって我々の健康や生活が蝕まれてきたこともまた事実です。

過剰な医療などといったものもその一分野と言わざるを得ません。

 

ならば余計なことをしないこと、やりすぎないこと、作りすぎないこと、消費しすぎないこと、最小限で済ませることこそが、まず本質的に大事な「エコ」「オーガニック」の第一歩ではないかと私は思うのです。そうでなくて「オーガニックグッズ」「エコグッズ」を次々と作り出してブームにしているというのは新しい消費の為のネタを作り出していることに他ならないと思います。

 

拡大再生産という言葉がありますが、成長し続けない限りは破綻してしまうという経済の仕組み、そういったもの自体が本質的にエコと相反しているわけです。本質的にエコと矛盾しているわけです。ならばそういった商業主義的資本主義に基づく拡大経済というものを根本的に改めない限りは本当の意味での「エコ」「オーガニック」というものは実現しないと思います。

間違いなくそこにある現在の社会の本質的な構造、経済的構造、政治的構造、国家的構造といったものをきちっと理解し、それをどのように変革していくか、また我々がそういったものの影響からどうやって自己保全、防御を行っていくかということを考えていかねばならないのです。

本物の「エコ」「オーガニック」を実践すれば間違いなく資本主義の経済原理と相反する現象が生まれます。これは不可避なことなのです。

現代多くの政治学者や環境活動家などが世界中で「気候変動」の問題の解決は現代の資本主義に立脚した経済構造(見込み生産、アマゾンお急ぎ便のような負荷の大きい流通システム、コストコ・プラントのような大量消費)のままでは不可能と訴えています。

現代の経済システムに立脚した「パリ協定」のようなものでは最早手遅れというのです。(なのに「パリ協定」ですらまだ発進できていません!)

 

よくエコとかオーガニックとか自然運動のようなものをやっている人たちは「イデオロギーというものは必要ない。」とか「イデオロギーは苦手だ。」という言葉を仰います。

「自然につながっていけばいい。」とか「平仮名で考えられることでいい。」とかいう考えです。確かにまずイデオロギーだけが暴走する必要はないと思いますが、今の資本主義経済と言うものはイデオロギーのバックボーンを持っています。

「成長経済こそが善である。」としてそれに基づいて利益を上げるために企業活動を推進することが不可欠であり、国家はそれを第一の使命としてバックアップしていく。そしてそのもとで繁栄を目指していくのが正しい国民の在り方であると。

間違いなくイデオロギー的なバックボーンを持ってそれに基づいた施策、方針といったものを実行しているわけです。それを変えるのならば新たなイデオロギー的なバックボーンをきちっと持って、新たな社会秩序というものを自ら提案し、提示しそれを実現していくことが不可欠となるのです。

そして今ある社会的な仕組みやイデオロギーといったものとの相克の中でいかなる着地点を見いだせるかということを模索していかねばならないのです。「イデオロギーは嫌いだから。」と言っていても今ある言ってみれば反エコ、反オーガニックな仕組みというのは確かな自らのイデオロギーを持って驀進してきているのです。

 

ですから「イデオロギー的なことにこだわる必要はない。」というのは明らかな逃げ口上です。

よく自然主義、エコとかオーガニックと言った市民活動をしているような人たちの集まりの中には「対決はよくない。」「対話すればいい。」ということをおっしゃる方がおられます。確かに対決しなくても対話で解決すれば問題ありませんし、融和していくのが一番いいのは間違いないと思います。しかしながらもはや生活のいろいろな局面で我々の暮らしや健やかさが現実に危険にさらされるような状態になってきているのは否定できません。農薬や除草剤の無節操な散布を勧めるようなキャンペーン。小さい子どもに対してもどんどんと必要があるのかないのかわからないようなワクチンを注射しろといったようなキャンペーン。ヨーロッパの基準の何千倍・何万倍という農薬を使っているイチゴが堂々と売られているという現実。世界で飛びぬけて多い3千種類を超える食品添加物が認可されているという現状。迫りくる放射能の危機(それゆえ台湾では国民投票で日本の農産物は輸入しないことが決議されました。)蔓延しているアレルギーやアトピーやそして様々な低年齢者の心の病。こういったものはすべて売らんかな、儲けんかなといった商業主義的な世の中の影響によって生まれてきているものなのです。人間自体を食い物にすることによって今の経済は延命を図ろうとしているのです。

 

「対決は嫌だから。」とか「あまり争いたくないから。」と自分たちだけはロハスな暮らしをしていたいからとそれで済むのならいいですが、否応なしに影響を受けざるを得ないような状況になってきていると思うのです。いくら自分だけが自然食品店で自然食品を買っているからいいと言っても100%ディフェンスできるわけではありません。

 

エコブーム、オーガニックブームと並行して田舎移住が脚光を浴びてきました。

現在のこういった害悪から逃れて田舎で健康に子どもたちを育てたい、エコな暮らしをしたい、オーガニックな毎日を送りたいといった願いを持った人たちの田舎への志向です。

私たちも事実、田舎移住を繰り返してきました。

しかし拙い経験から思うことは、いくら田舎に移住しても、例え北アルプスの山頂に移住しても現代社会のこういった影響は受けざるを得ないということです。

都会よりも却って近郊部や田舎に移住したためにすぐ横にある果樹園や田んぼにとんでもない量の農薬がまかれていてそれを直接浴びないといけない状態になるとか、田舎ほど自然食品店などはなくて添加物が満々と入ったレトルト食品のようなものばかりを食べないといけないとか、そういった矛盾も待ち構えているのです。

 

エコとかオーガニックといったブームが本当に我々一人ひとりの身体、生命の安全を守って健やかな幸福追求できる暮らしを実現し、そして未来へ向かって健全な種を残していくように、子どもたちが健やかに育てるようにしていくためには単なるブームではなくて、最終的にはそれを社会変革の政治運動へと昇華していかなければなりません。

そのためには既存の社会システムや経済の仕組みとある程度、対抗的に向かい合わねばならないことは間違いありません。そして困るものがあれば対決し、打破していかねばなりませんし、そこでは対立といった構図はある程度やむを得ないものがあるのだと思います。敵対しなければならないことも出て来ると思います。

自分達自身のため、また愛すべき子孫のために、安全にそして健やかに生存できる世界を我々自身の力で勝ち取っていかねばならないのです。「宇宙からのリズム」「よい波動」?ロックのhideさんの曲じゃないですが、♪何年待っていても何も降ってきやしないんだろう~♬(ロケットダイブ)

 

きちっとしたイデオロギー的なバックボーンを持ってなすべきことを推し進める力強さがないとこの運動は単なるブームのようになって金儲けの新たなネタにされたまま雲散霧消していくのだろうと思います。今、そのような傾向にむしろなっているのだと思います。

俗な比喩で恐縮ですが、気弱だけど優しい母親と年頃の娘の家庭。「一儲けできるぞ。」とよからぬ商売に娘を引き込もうとするおっさん。こんな構図の下ではやはり強い父親のような存在が必要なのです。

 

今、世界に目を向けると従来型の政党に対して市民運動に立脚し貧困問題、人種差別、格差解消などを訴える改革的政党や団体はほとんど例外なく「エコ」や「オーガニック」を政治信条にしています。両者の不可分な関係が見てとれます。

我々一人ひとりが危機感を持って本当の「エコ」「オーガニック」を推し進めねばなりません。そして日本の野党各党も「エコ」「オーガニック」を党是として改革に立ち上がっていただきたいと思います。

自然食品さえ買っていればいいという時代はもう過ぎたのです。

 

私はこの問題に関して決して楽観的な展望は持っていません。
もし仮に私のこういったブログのような類いの言論が広まって人々がオーガニックな食品ばかり求めるようになったらどうなるでしょうか?「結構じゃないか。オーガニック社会がやってくる。」でしょうか?
私はそう簡単にはいかないと思います。そうなればきっと現代の「普通の食品」の大半を「オーガニックテイスト」「オーガニックに配慮」「無添加食材使用」などと紛らわしい怪しげな色づけをベタベタと塗りつけて本物のオーガニック食品との区別がつかないように工作して売り出すのでしょう。
「持続可能な農産物」などというフレーズも間違いなく使われるはずです。すでにこういった動きは感じられます。JASなどの認証制度もその基準を極めて甘く実質無意味なものにしていくことによってその流れに加担していくでしょう。本来的な意味を反映しない意図的な表示が概念の乱れを産み出すのです。(認証制度は経済の一部ですから。)
最後は本物のオーガニックブルーベリージャムに100%有機栽培の原料使用といった表示をされると困るので(0.1%だけオーガニックブルーベリーが入っているだけの商品もオーガニックブルーベリージャムとして同じように売りたいので)原料内容表示自体を廃止・禁止するといったことも国策として為すかもしれません。(知る権利を奪う。)政治と経済は一体です。
「0.1%以上自然食材が用いられていればオーガニックと表示することを閣議決定した。」とどこかの総理大臣がいつもの調子で発表すればそれで終わりです。

「エコ」「オーガニック」というのは現代の資本主義の利潤追求のためには例えいくら人間の健康・安全を蝕んでも構わないという攻撃から私たち自身をそして未来を担う子どもたちを守るための防衛戦に他ならないのです。上から与えてもらおうと思っているだけではそれは絶対に不可能です。自分達の頭で考え、目で見極め、そして連帯して求めていかねばなりません。闘っていかねばなりません。
「エコ」「オーガニック」それは現代に於いてピースフルなフレーズではなく、闘うためのスローガンなのです。たとえそれが日々の暮らしの中での日常的で静かな闘いであっても。私たちの何気ない日常こそがこの闘争の主戦場であることを忘れてはなりません。