老人集団自決について思う

1.老人は皆切腹? 
 昨今、世間で話題になっている「老人は集団自決しろ」の問題。成田氏や同調者たちの主張を聞いて感じるのは、社会にとって負担になる老人の存在をいわば大量の核廃棄物の処理とか放射能汚染土の処分のように考えているのではないかということだ。つまり、目の前にある厄介な物(nuisance=自分とは別の「外部的」なもの)の処分の技術論になっているのではという印象だ。
 成田氏登壇のフォーラムのようなものに招待された中学生が、「老人が自動でいなくなるシステムを作るなら?」と真顔で質問していた。自分のおじいちゃんおばあちゃんとは、別の「老人」と言うモンスターのようなイメージで話しているのかという危うさ。空前の老齢化社会。あの大量の団塊世代が本格的な要お世話状態の老人どもになったら…と勤労世代や若者は、皆背筋が寒くなってくるのだろう。それは、s.34生まれの私とてよく判る。しかしながら、この問題というのは先述したような一過性の不要な「物」処理の問題ではないはずだ。それに一方、視点を変えれば老人が大挙して消滅するということは大きな市場の喪失を意味する。経済にとって大打撃であり若い世代にとっても大きな減収となろう。

2.命はリレーしていくべきもの
 私たち人間の生命(いのち)は、ここまでリレーして繋いで来たもの。だから、私たちが今在る。そして、これからもリレーして行くべきもの。どうやれば、上手く次の世代へバトンを渡せるのかという問題のはずだ。私は、花の仕事をしている。ある花は、華やかに。またある花は可憐に。又、清楚に…。その後に未来へ命を託す種を成さんが為に、力いっぱい咲き、そして潔く枯れ朽ちて行く。それ故に花は美しいのだといつも思う。そこには、少しの無駄も迷いもない。
 人間と言うものは、植物と違い「自我」というものがあり、自己実現欲、自己保全欲というものが在る。それは、当たり前だし、それ自体が悪ではない。しかし、命のリレーをしていくことと、この自己実現、自己保全という命題が相容れない状況となった時、どう私たちは判断すべきかというのがこの問題だ。決して目の前に在る「汚染土」をどう処理しようかという話ではない。

3.「楢山節考」から
 このことを考える上で、日本人誰もの頭に思い浮かぶ映画と言えば、「楢山節考」だろう。一口で言えば、命の賛歌の映画だと思う。人も色々な動物も命をリレーしていく様をある時はユーモラスに、又ある時は峻厳にリアリズムの極みの今村的手法で描写している。この問題を考える上で、是非一度は観て欲しい映画だと思う。(結構きついけど。何日間かは立ち直れない程のインパクトがある。)その村では70歳になれば「お山へ行く」というルールは、誰に対しても絶対なもので「貢献度の高い人は考慮」とかいう曖昧さはない。絶対だ。そういうことを言い出すと、こういうルールは決して上手く行かないということだろう。
 そして、命を繋ぐ為に必要なこの過酷な所業をあたかも当たり前の日常の1つとしてこなして行く様が印象的だ。「お山」へ行く前日に老婆(坂本スミ子演じる)が、畑を耕して種を蒔く。本当にこのシーンは衝撃的だった。お山のシーンよりもむしろ、心打たれたと思う。お山へ母を背負って行く山道で息子(緒形拳)は、自分も20年経ったら孫に背負われて行く。その孫も又、20年たったらひ孫に背負われてお山へ行く旨、母へ告げる。その部落では子どもに至るまでみんながそのことを判っているのだろう。子どもも先の中学生のようにどうやったら面倒なものを自然に消せるか?ではなくて、自分もやがては「そうなる。」そうでないと皆、生きては行けないのだということを判っているのだろう。それが、楢山節考の世界だ。当然、後に残っている者全てがその老婆がお山へ行ってくれたおかげでその夜、自分たちは生きている、飯を食っているのだということを判っている。さっそくその夜、孫の新しい嫁がやって来て物を食べていた。「さっさと来やがって、もう。でもまあ、そういうもんだからな。」という緒形拳の表情が印象的だった。
 老いたる者は、命をリレーする為には自らはどうあるべきかを悟り、又、後に残る者たちは皆、自分たちの存在を可能にしている不動の事実に対し、畏敬と敬服の念をごく自然に有しているのだろう。(感謝などという薄っぺらい言葉ではない。)日本中にこんなことはあったのだろう。明治の頃までも。勿論、今日「お山」をその通りやるわけには行かないし、現実的ではない。成田氏の言う集団切腹とか老人安楽死ルール(映画「プラン75」のような)は、正しく現代版の「お山」そのものなのだろうが…。しかし、これを国民的コンセンサスを作って受け入れるのは、かなりハードルが高いだろう。

4.解決策としての「ソフト楢山」
 現実論的に私は、『ソフト楢山』はどうかと思う。つまり、「死ね」とは要求しないけれど、老齢で生きて行く上は、ある程度堪える位の辛抱をして頂くということだ。そもそも我国には「葉隠れ」とか「禅譲」とか言う考えがある。それにそんな高尚な概念をもちださなくとも、そもそも「隠居」という言葉がある。「隠居」とは、地味で質素なもののはずだ。それでいい。
 今の70代、団塊世代には「隠居」というイメージが全くない。ベンツのオープンカーを乗り回しているのもナナハンをぶっ飛ばして来るのも皆、白髪の70代男性だ。ステーキだの伊勢海老だのオマールだの食べたがる。いつまでもギラギラしている。年がいっても元気なのはいいと思うけど、それとは違う。そんな「団塊世代」が本当に老いていって、それでも尚、老齢ふらつき運転でオープンカーを乗り回すんだと言って聞かなかったり、そこら中でナナハンでコケて助けてくれと呻いていたり、はたまたステーキ食べ過ぎて救急車だの…となったら一体どうすればいいんだろうと、若い世代にとっては恐怖が募るばかりなのだろう。それ程に彼等は、ギラギラしていて、欲望の衰えと無縁なように見える。つまり「隠居」があり得ないようなのだ。これは恐怖だ。絶望的だ。そんなことが、背景にあるからこそ、ひと昔前なら超キテレツな異論のように思えただろう老人集団切腹説が脚光を浴びているのだと思う。こうなれば「ソフト楢山」しかないと思う。現実的には。老人が、生き長らえてしかも若い世代から今のように「やっかい物体」視されず、若い人たちも老いた人たちに暖かい目線を向けられるようになる為には…。
「ソフト楢山」とは
年金は生活保護と同レベル以上の金額のものは、全てカットする。そして「生存権」担保の為の制度に純化する。現役時代の収入格差がそのまま反映するような体系を止めて、一律化・一定の給付を行う。
一定以上の高額の資産所有者には、一切年金は支給しない。
老人の医療負担を35%にする。更に85歳以上になれば40%とする。
ムダな「医者通い」「病院サロン化」「薬漬け」をなくす。
一方、絶対に必要な生死に関わるような医療については、負担ゼロとする。
バスや電車に在る「老人優先シート」は、一切廃止する。代わりに<HELP-NEEDシート>とする。このシートは色々な事情で「しんどい」人の為のシートである。その優先順位は、
1.急性疾患やケガで痛く苦しい人
2.妊婦
3.慢性の病気、軽度の病気などで苦しい人。体力の衰えている人。
4.健康だけど今、大変疲労の激しい人
とする。これらが「ソフト楢山」の概要だ。

5.道徳の再構築
 順風満帆な経済状況の時代を生きて来た世代は「成果」を残せて当然だと言う思いを、その後の苦しい不況時代に生きて来た世代は持っているはずだ。そして今、老齢にならんとしている世代から「私たちは成果を残してきたもの。今、大切に扱ってもらって当然。」とか「君たちは根性と努力が足りないから中国に追い抜かされたんだ。」とか言われても納得できるわけはないだろう。老人だからと言う理由だけでピンピンしているのに、超ブラック労働で睡眠もままならず、ぶっ倒れそうな若者を差しおいて座る必要はないのだから。老人は、1のケースは当然だけど、大抵3には当てはまることが多いだろうから、1と2の人がいない場合は大抵、今と同じ位、席にありつけるはずだ。でも、前提として老人だから優先というのは、止めるべきだと思う。「老人」が老人なのに甘えずに立っている。これが、老人なりの社会貢献の第一歩の象徴的な姿でとてもよいと思う。そういう姿勢を老人の側から見せていかないことには、もうこれからは勤労世代から負担していくべき価値のある対象として認めていってもらえないだろう。「年長者は敬愛すべき」と言う道徳の理念根拠は、今日空虚になりつつあると思う。そこをもう一度再充填し直さないで「年寄りを敬え。大切にしろ。」と繰り返していても空しいだけだ。
 元気な老人が仕事に疲れた若者に席を進んで譲る姿こそが、これからの社会のあるべき「良俗」だとむしろ思う。そうすれば、自然と若い世代の老人への思いやりももう一度、取り戻せるのだろうと思う。今こそ老人自らが、まずそんな姿勢を見せていくべきタイミングなのだと思う。それなのに真反対のすごい本が、近頃出版されていることを知った。下重暁子著「老人をなめるな」だ。本当にこれはすごすぎる。次回は、此の本について共に考えてみたい。