「北陸新幹線京都延伸計画について」滋賀県知事 知事への手紙に返答なし

7月2日火曜日 京都新聞にて

北陸新幹線 延伸 小浜ルート支持 三日月知事 県会で改めて表明」

という記事が掲載された。
三日月知事は、同日の県議会6月定例会議一般質問で、谷口典隆県議(自民党県議団)の質問に答え、「新幹線ネットワークの効果は、つながってなんぼ。決めたことを一日も早く実現していくことが知事として与えられた使命だ」と現行ルートの支持を明言。その上で、JRから経営分離される並行在来線が未定となっていることを念頭に「(県内には)並行在来線が存在しないことなど繰り返し発言しているが、これからも分かりやすく発信していきたい」と語った。

 

6月22日付でこちらより送付した信書及び滋賀県ホームぺージ上の「知事への手紙」宛メッセージ、どちらにも現時点で何の返答もありません。「知事への手紙」に関しては受け取ったという確認メールもありません。

上記記事にある知事の「新幹線ネットワークの効果は、つながってなんぼ。」という

見解は、何故小浜ルートを支持するのかという理由には全くなっておらず、小浜ルートという結論ありきとしか思えません。実質的根拠はなんら示されておらず、与党プロジェクト委員会で決めたことだからやるのが当たり前という従来からの西田氏の発言の全くの受け売りとしか思えません。また、並行在来線についても知事が繰り返し発言さえしていれば、滋賀県内には並行在来線が存在しないということになるわけもなく、なんの補償もなく安心できません。

小浜ルートには前回のブログに掲載した「知事への手紙」にあるように様々な問題があると思われ、滋賀県知事には早急に回答を求めたいと思っております。

 

また、京都府民だけの問題ではなく、滋賀県民も他人事ではないという点を十分考えていただき知事に対しても声を届けていただければと思います。

 

「北陸新幹線京都延伸計画について」滋賀県知事に問う

 北陸新幹線の京都延伸計画については、かねてから大変不安であり、いろいろと発言して参りました。今回、滋賀県知事が小浜ルート案に賛同する旨の見解を公表したことに強い疑問を感じたので、信書にて知事へ以下のような質問状を郵送しました。又、電子上でも「知事への手紙」コーナー宛、質問を発信しました。

「知事への手紙」
 去る523日の京都新聞紙上で「滋賀県知事小浜ルート支持」との記事を見ました。この件に関し、一県民として私の意見と質問を知事に提しますのでご回答くださいますようお願いいたします。

 私の意見としては、北陸新幹線の京都ルート延伸については、工費の莫大さ、開業後の赤字の公算が大であること、地元負担の莫大さなど経済的デメリットが甚大であること、延々とトンネル工事を丹波山中から洛北地区へ行うことによる自然環境への大きな危惧(河川や地下水への悪影響)や京都市民生活や観光への大打撃(大型のダンプが市街地を行きかうなど)から全く妥当でないと考えます。米原ルート案とて仮にも工事を行う以上、全く問題がないとは思いませんが、建設に伴う影響という点でも余程、ローインパクトですし、従来より在る東海道新幹線を利用するのが合理的であると考えます。北陸の人々の開通への切望は判るとしても、別にわざわざ小浜ルートのような「恐怖の地底暗黒列車」に乗って大阪へ行きたい訳ではないでしょう。美しい東江州の田園風景を見ながら行って頂ければよいのではないですか?知事はいかがお考えですか?委員長の西田昌司氏は「米原ルートは全く実現不可能」と言い続けておられますが、別に米原の山中にゴジラがうようよ住んでいる訳でもありません。東海道新幹線だからとういう単に制度上の問題です。要は、デスク上のことで解決できることではないのですか?又、経済的メリットが米原ルートには皆無で、小浜ルートには満ちているというのも全く理解できません。日本海基軸とか言う抽象概念ばかり唱えておられますが、嶺南から丹波、京都に大地下トンネルが出来ることでどんな経済的なメリットがあるのか?と言いたいです。
 知事は、かの促進大会(522日)において並行在来線の問題が生じ、在来線利用者に不便が生じないようにすることが大切と力説されていたようです。その点は、全くその通りだと思いますが、だからと言って県下に並行在来線問題が生じないようにするため「厄介ものは他府県へ行ってもらえば万々歳」というのは、一知事としても又、更には広域連合長の立場としておかしいのではないですか?本当に厄介なものなら、それ自体を「止めてしまう。」と言うのが、政治家としての矜持ではないのですか?何故にかように大問題を抱え、むしろ「実現不可能」と言うべき小浜ルートを滋賀県知事として支持推進されるのか、その実質的論拠を明らかにして頂きたいのです。
 更に私が一つ付言したいのは、万一「京都ルート」が実行された場合に洛北周辺で発生する大量のトンネル掘削土のことです。洛北やその周辺に甲子園球場の何十倍とも言われる莫大な量の発生土を野積みできるような場所などありません。発生土の処理方については未定との委員会からの発表ですが、(それでそもそも延伸計画を推進するつもりか?と言いたいですが…)私が考えるにまず第一に狙われるのは隣県の大津市(葛川地区)と高島市でしょう。もし大量の有毒なヒ素を含有した発生土が、安曇川流域に持ち込まれたら…大雨の毎に浸潤流出し、それは琵琶湖へ向かいます。関西の水ガメそのものがヒ素汚染される危険も十分考えられるのです。知事は、こういう点についても考えた上で小浜ルート(京都案)に賛同されているのですか?西田委員長から「トンネル掘削土は、滋賀県へは持ち込まない。」という確約でもとられた上でこのルートに賛同されたのですか?流域住民として大変不安です。
 又、基本的に「大深度工法」については、関東に於いて高速道路建設に伴い重大な陥没事案も発生しています。かようなことが京都市内でも起こったら大問題です。そもそもこの工法を定めた法令自体が個人の所有権を保証した憲法に違反するのではないかという指摘も出されています。
 知事の発言によって、それまで米原ルート案に押され、瀕死の状態に追い込まれていた小浜ルート案が、にわかに息を吹き返したのは間違いありません。小浜ルート派が随分と知事に感謝されるのは十分理解できますが、何故、県知事として今、このタイミングで京都延伸計画断固推進すべしという声明を出されるのか不可解でなりません。
 知事の今回の決断の判断理由を具体的に明らかにして頂くよう県民として求めます。又、小浜ルート案賛同の見解を撤回し、米原ルート案も含め諸般十分に慎重に検討した上で延伸計画を取り扱うよう表明されることを求めます。

以上、信書にて郵送しました。

 少しでも多くの方にこの計画のこと、又その問題性について考えて頂きたいのでここに公表しました。又、質問状の内では言及していませんが、京都延伸計画はどのルートでも活断層をぶち抜いてトンネルをつくることになってしまうのです。万一、大トンネル工事に刺激されて花折断層大地震でも起きたら大変です。その可能性を完全否定することは出来ないはずです。
 私は、京都市内の出身ですが、故郷が強引拙速な巨大トンネル工事によって荒らされるのはなんとしてもガマンなりません。京都市在住の皆さんは、京都での平穏平和な日々の暮らしを失いたくないとお考えなら、誰しもが支持政党などに拘らずこの巨大トンネル工事の強行計画には、危惧を持って頂けるはずだと思います。
 もう1つ。私は、目下は近江の湖西地区に住んでいますが、万一この小浜→京都ルートが実現されると、この湖西の住民にも大きな不安がもたらされるのです。丹波から湖西の近くの山中を新幹線が通るという理由で全く何の関わりもないのに、湖西線が「並行在来線」の指定を受け、減便や廃駅、更には第3セクター化や民営化の強制などが命じられ、最悪の場合は廃線に追い込まれる危険性もあるのです。私たち西江州の住民にとっても全く他人事ではありません。質問書の中にある発生土の持ち込みの危険とも併せ、極めて警戒せねばならないプロジェクトなのです。これを機に1人でも多くの方にこの問題を知って頂き、慎重な討論が積み重ねられることを期待しています。

 後日、知事から何らかの回答がありましたらまたお知らせします。

京都市長選挙2024<2> ー京都の鮎釣師の皆さんへー

 上桂川(周山)は、京都の友釣りファン鮎釣り人にとって、大切な釣り場。その上桂川に今、大変な危機が。他でもない北陸新幹線京都延伸計画。上桂川の主要漁場をほぼ直撃して未曾有の大工事が計画されているのです。もし、これが実行されれば水源が枯れる・土砂が流入等で「天下一、北桑の天然鮎」と唄われ、「献上鮎の里」と尊ばれてきた上桂川も「おしまい」です。絶対に計画の根本的見直しを京都の鮎釣人なら誰でも求めるべきです。

 更に釣りだけではありません。この巨大トンネル工事が京都市の地下をぶった切って強行されれば地下水の枯渇による被害はもとより1日900台以上と言われる工事の大型ダンプが市内の居住区域の間を毎日行き交います。恐怖です。大迷惑です。幼児や子どもたちの通園通学にも大きな危険。熟年世代をはじめ市民がゆっくり公園や鴨川河川敷で憩うことも出来なくなります。自転車での買い物も恐ろしい。まさに京都市民の生活が何年にも亘って破壊されるのです。(全工期完了にはなんと30年とか!)

 今回の市長選。「鮎」を愛する京都の釣り人なら絶対にこの無謀で京都市民にとって何のメリットもない計画に「はっきり」Noと言ってくれる人を選ぶべきです。「今とりあえず賛成はしてませんよ。」ではなく「はっきり」Noと言ってくれる人を、です。直接の現場である京北の皆さんこそ「はっきり」Noと言って頂きたいです。清流上桂川こそ京北の宝です。漁業組合も京都の釣具商さん方もここらでこの計画のことをよく知って頂き、計画に見直しを求めて欲しいです。そしてそれを叶えてくれる候補者を選んでもらいたいです。

 大切な上桂川の鮎を未来に残すため、そして末永く「周山の友釣り」を楽しんでいく為に。上桂川の友釣りを愛する者として、福山和人さんを推薦いたします。

                   midori-ya

2024年京都市長選挙によせて

 私は京都市出身です。住民無視の観光至上主義。外部資本の過度な導入による「京都らしさ」の破壊。子育ての不安等々・・・。更には、閑静な洛北に全く不釣り合いな植物園周辺のレジャーパーク化や京都そのものを全壊させるような迫り来る北陸新幹線の京都延伸計画。(今、おとなりの西江州高島から故郷の近年の「惨状」を見るにつけ大変危機感を抱いてきました。)

 京都市内から滋賀県下へ移住して来られる若いご夫婦を次々とお見受けいたします。「そりゃそうだろ。」と感じざるをえません。もう抜本的に思いきった大きな改革、変革しかないと思います。今は、その時です。京都にとって。政治姿勢・政策・人間性、あらゆる面で本当に京都市民の為になるのは、福山和人氏以外にないと素直に感じます。福山氏を推薦いたします。

「共産市長が誕生したら市役所に赤い旗があがる。」もう、そんな呑気な「情緒的な」戯言を言っていられる場合ではないと思います。今の京都は。本当に実質的に京都市民の暮らしが良くなるのなら、赤い旗であろうが紫色の旗であろうが茶色の旗であろうが、そんなことはどうでも良いことではありませんか?要は「何を為すか」ではありませんか?

 近頃、亡くなられた八代亜紀さんが熱心な共産党ファンであったことは有名ですが、彼女の演歌は最高だから「リベラル」「左翼」などとは無縁なようなトラック野郎たちの多くが、八代ファンだったのです!要は「仕事の中身」です。

 他の3候補は、3人とも全くの「従来路線」か、または「似たり寄ったり」だと思います。(中でも特に松井氏が、ネトウヨ系雑誌の「HANADA」に堂々と寄稿されているのには本当に驚きました。そういう方だったのですね!)

 私自身は、共産党を支持政党としている訳ではありません。でも「共産党が推しているので」という理由だけで福山氏を外すのは、絶対に失策だと思います。いわゆる「共産ぎらい」の皆様も、もう、こうなったら一度少々不安でも賭けてみるしかないですよ。今の状況では。今の京都なら。(万一ダメなら4年後に変わってもらうという手もありますし・・・)

 私の故郷に2024年新しいすがすがしい風が吹くことを期待しています。福山さんを推薦いたします。

                 midori-ya

老人集団自決について思う

1.老人は皆切腹? 
 昨今、世間で話題になっている「老人は集団自決しろ」の問題。成田氏や同調者たちの主張を聞いて感じるのは、社会にとって負担になる老人の存在をいわば大量の核廃棄物の処理とか放射能汚染土の処分のように考えているのではないかということだ。つまり、目の前にある厄介な物(nuisance=自分とは別の「外部的」なもの)の処分の技術論になっているのではという印象だ。
 成田氏登壇のフォーラムのようなものに招待された中学生が、「老人が自動でいなくなるシステムを作るなら?」と真顔で質問していた。自分のおじいちゃんおばあちゃんとは、別の「老人」と言うモンスターのようなイメージで話しているのかという危うさ。空前の老齢化社会。あの大量の団塊世代が本格的な要お世話状態の老人どもになったら…と勤労世代や若者は、皆背筋が寒くなってくるのだろう。それは、s.34生まれの私とてよく判る。しかしながら、この問題というのは先述したような一過性の不要な「物」処理の問題ではないはずだ。それに一方、視点を変えれば老人が大挙して消滅するということは大きな市場の喪失を意味する。経済にとって大打撃であり若い世代にとっても大きな減収となろう。

2.命はリレーしていくべきもの
 私たち人間の生命(いのち)は、ここまでリレーして繋いで来たもの。だから、私たちが今在る。そして、これからもリレーして行くべきもの。どうやれば、上手く次の世代へバトンを渡せるのかという問題のはずだ。私は、花の仕事をしている。ある花は、華やかに。またある花は可憐に。又、清楚に…。その後に未来へ命を託す種を成さんが為に、力いっぱい咲き、そして潔く枯れ朽ちて行く。それ故に花は美しいのだといつも思う。そこには、少しの無駄も迷いもない。
 人間と言うものは、植物と違い「自我」というものがあり、自己実現欲、自己保全欲というものが在る。それは、当たり前だし、それ自体が悪ではない。しかし、命のリレーをしていくことと、この自己実現、自己保全という命題が相容れない状況となった時、どう私たちは判断すべきかというのがこの問題だ。決して目の前に在る「汚染土」をどう処理しようかという話ではない。

3.「楢山節考」から
 このことを考える上で、日本人誰もの頭に思い浮かぶ映画と言えば、「楢山節考」だろう。一口で言えば、命の賛歌の映画だと思う。人も色々な動物も命をリレーしていく様をある時はユーモラスに、又ある時は峻厳にリアリズムの極みの今村的手法で描写している。この問題を考える上で、是非一度は観て欲しい映画だと思う。(結構きついけど。何日間かは立ち直れない程のインパクトがある。)その村では70歳になれば「お山へ行く」というルールは、誰に対しても絶対なもので「貢献度の高い人は考慮」とかいう曖昧さはない。絶対だ。そういうことを言い出すと、こういうルールは決して上手く行かないということだろう。
 そして、命を繋ぐ為に必要なこの過酷な所業をあたかも当たり前の日常の1つとしてこなして行く様が印象的だ。「お山」へ行く前日に老婆(坂本スミ子演じる)が、畑を耕して種を蒔く。本当にこのシーンは衝撃的だった。お山のシーンよりもむしろ、心打たれたと思う。お山へ母を背負って行く山道で息子(緒形拳)は、自分も20年経ったら孫に背負われて行く。その孫も又、20年たったらひ孫に背負われてお山へ行く旨、母へ告げる。その部落では子どもに至るまでみんながそのことを判っているのだろう。子どもも先の中学生のようにどうやったら面倒なものを自然に消せるか?ではなくて、自分もやがては「そうなる。」そうでないと皆、生きては行けないのだということを判っているのだろう。それが、楢山節考の世界だ。当然、後に残っている者全てがその老婆がお山へ行ってくれたおかげでその夜、自分たちは生きている、飯を食っているのだということを判っている。さっそくその夜、孫の新しい嫁がやって来て物を食べていた。「さっさと来やがって、もう。でもまあ、そういうもんだからな。」という緒形拳の表情が印象的だった。
 老いたる者は、命をリレーする為には自らはどうあるべきかを悟り、又、後に残る者たちは皆、自分たちの存在を可能にしている不動の事実に対し、畏敬と敬服の念をごく自然に有しているのだろう。(感謝などという薄っぺらい言葉ではない。)日本中にこんなことはあったのだろう。明治の頃までも。勿論、今日「お山」をその通りやるわけには行かないし、現実的ではない。成田氏の言う集団切腹とか老人安楽死ルール(映画「プラン75」のような)は、正しく現代版の「お山」そのものなのだろうが…。しかし、これを国民的コンセンサスを作って受け入れるのは、かなりハードルが高いだろう。

4.解決策としての「ソフト楢山」
 現実論的に私は、『ソフト楢山』はどうかと思う。つまり、「死ね」とは要求しないけれど、老齢で生きて行く上は、ある程度堪える位の辛抱をして頂くということだ。そもそも我国には「葉隠れ」とか「禅譲」とか言う考えがある。それにそんな高尚な概念をもちださなくとも、そもそも「隠居」という言葉がある。「隠居」とは、地味で質素なもののはずだ。それでいい。
 今の70代、団塊世代には「隠居」というイメージが全くない。ベンツのオープンカーを乗り回しているのもナナハンをぶっ飛ばして来るのも皆、白髪の70代男性だ。ステーキだの伊勢海老だのオマールだの食べたがる。いつまでもギラギラしている。年がいっても元気なのはいいと思うけど、それとは違う。そんな「団塊世代」が本当に老いていって、それでも尚、老齢ふらつき運転でオープンカーを乗り回すんだと言って聞かなかったり、そこら中でナナハンでコケて助けてくれと呻いていたり、はたまたステーキ食べ過ぎて救急車だの…となったら一体どうすればいいんだろうと、若い世代にとっては恐怖が募るばかりなのだろう。それ程に彼等は、ギラギラしていて、欲望の衰えと無縁なように見える。つまり「隠居」があり得ないようなのだ。これは恐怖だ。絶望的だ。そんなことが、背景にあるからこそ、ひと昔前なら超キテレツな異論のように思えただろう老人集団切腹説が脚光を浴びているのだと思う。こうなれば「ソフト楢山」しかないと思う。現実的には。老人が、生き長らえてしかも若い世代から今のように「やっかい物体」視されず、若い人たちも老いた人たちに暖かい目線を向けられるようになる為には…。
「ソフト楢山」とは
年金は生活保護と同レベル以上の金額のものは、全てカットする。そして「生存権」担保の為の制度に純化する。現役時代の収入格差がそのまま反映するような体系を止めて、一律化・一定の給付を行う。
一定以上の高額の資産所有者には、一切年金は支給しない。
老人の医療負担を35%にする。更に85歳以上になれば40%とする。
ムダな「医者通い」「病院サロン化」「薬漬け」をなくす。
一方、絶対に必要な生死に関わるような医療については、負担ゼロとする。
バスや電車に在る「老人優先シート」は、一切廃止する。代わりに<HELP-NEEDシート>とする。このシートは色々な事情で「しんどい」人の為のシートである。その優先順位は、
1.急性疾患やケガで痛く苦しい人
2.妊婦
3.慢性の病気、軽度の病気などで苦しい人。体力の衰えている人。
4.健康だけど今、大変疲労の激しい人
とする。これらが「ソフト楢山」の概要だ。

5.道徳の再構築
 順風満帆な経済状況の時代を生きて来た世代は「成果」を残せて当然だと言う思いを、その後の苦しい不況時代に生きて来た世代は持っているはずだ。そして今、老齢にならんとしている世代から「私たちは成果を残してきたもの。今、大切に扱ってもらって当然。」とか「君たちは根性と努力が足りないから中国に追い抜かされたんだ。」とか言われても納得できるわけはないだろう。老人だからと言う理由だけでピンピンしているのに、超ブラック労働で睡眠もままならず、ぶっ倒れそうな若者を差しおいて座る必要はないのだから。老人は、1のケースは当然だけど、大抵3には当てはまることが多いだろうから、1と2の人がいない場合は大抵、今と同じ位、席にありつけるはずだ。でも、前提として老人だから優先というのは、止めるべきだと思う。「老人」が老人なのに甘えずに立っている。これが、老人なりの社会貢献の第一歩の象徴的な姿でとてもよいと思う。そういう姿勢を老人の側から見せていかないことには、もうこれからは勤労世代から負担していくべき価値のある対象として認めていってもらえないだろう。「年長者は敬愛すべき」と言う道徳の理念根拠は、今日空虚になりつつあると思う。そこをもう一度再充填し直さないで「年寄りを敬え。大切にしろ。」と繰り返していても空しいだけだ。
 元気な老人が仕事に疲れた若者に席を進んで譲る姿こそが、これからの社会のあるべき「良俗」だとむしろ思う。そうすれば、自然と若い世代の老人への思いやりももう一度、取り戻せるのだろうと思う。今こそ老人自らが、まずそんな姿勢を見せていくべきタイミングなのだと思う。それなのに真反対のすごい本が、近頃出版されていることを知った。下重暁子著「老人をなめるな」だ。本当にこれはすごすぎる。次回は、此の本について共に考えてみたい。

老人集団自決について思う

1.老人は皆切腹? 
 昨今、世間で話題になっている「老人は集団自決しろ」の問題。成田氏や同調者たちの主張を聞いて感じるのは、社会にとって負担になる老人の存在をいわば大量の核廃棄物の処理とか放射能汚染土の処分のように考えているのではないかということだ。つまり、目の前にある厄介な物(nuisance=自分とは別の「外部的」なもの)の処分の技術論になっているのではという印象だ。
 成田氏登壇のフォーラムのようなものに招待された中学生が、「老人が自動でいなくなるシステムを作るなら?」と真顔で質問していた。自分のおじいちゃんおばあちゃんとは、別の「老人」と言うモンスターのようなイメージで話しているのかという危うさ。空前の老齢化社会。あの大量の団塊世代が本格的な要お世話状態の老人どもになったら…と勤労世代や若者は、皆背筋が寒くなってくるのだろう。それは、s.34生まれの私とてよく判る。しかしながら、この問題というのは先述したような一過性の不要な「物」処理の問題ではないはずだ。それに一方、視点を変えれば老人が大挙して消滅するということは大きな市場の喪失を意味する。経済にとって大打撃であり若い世代にとっても大きな減収となろう。

2.命はリレーしていくべきもの
 私たち人間の生命(いのち)は、ここまでリレーして繋いで来たもの。だから、私たちが今在る。そして、これからもリレーして行くべきもの。どうやれば、上手く次の世代へバトンを渡せるのかという問題のはずだ。私は、花の仕事をしている。ある花は、華やかに。またある花は可憐に。又、清楚に…。その後に未来へ命を託す種を成さんが為に、力いっぱい咲き、そして潔く枯れ朽ちて行く。それ故に花は美しいのだといつも思う。そこには、少しの無駄も迷いもない。
 人間と言うものは、植物と違い「自我」というものがあり、自己実現欲、自己保全欲というものが在る。それは、当たり前だし、それ自体が悪ではない。しかし、命のリレーをしていくことと、この自己実現、自己保全という命題が相容れない状況となった時、どう私たちは判断すべきかというのがこの問題だ。決して目の前に在る「汚染土」をどう処理しようかという話ではない。

3.「楢山節考」から
 このことを考える上で、日本人誰もの頭に思い浮かぶ映画と言えば、「楢山節考」だろう。一口で言えば、命の賛歌の映画だと思う。人も色々な動物も命をリレーしていく様をある時はユーモラスに、又ある時は峻厳にリアリズムの極みの今村的手法で描写している。この問題を考える上で、是非一度は観て欲しい映画だと思う。(結構きついけど。何日間かは立ち直れない程のインパクトがある。)その村では70歳になれば「お山へ行く」というルールは、誰に対しても絶対なもので「貢献度の高い人は考慮」とかいう曖昧さはない。絶対だ。そういうことを言い出すと、こういうルールは決して上手く行かないということだろう。
 そして、命を繋ぐ為に必要なこの過酷な所業をあたかも当たり前の日常の1つとしてこなして行く様が印象的だ。「お山」へ行く前日に老婆(坂本スミ子演じる)が、畑を耕して種を蒔く。本当にこのシーンは衝撃的だった。お山のシーンよりもむしろ、心打たれたと思う。お山へ母を背負って行く山道で息子(緒形拳)は、自分も20年経ったら孫に背負われて行く。その孫も又、20年たったらひ孫に背負われてお山へ行く旨、母へ告げる。その部落では子どもに至るまでみんながそのことを判っているのだろう。子どもも先の中学生のようにどうやったら面倒なものを自然に消せるか?ではなくて、自分もやがては「そうなる。」そうでないと皆、生きては行けないのだということを判っているのだろう。それが、楢山節考の世界だ。当然、後に残っている者全てがその老婆がお山へ行ってくれたおかげでその夜、自分たちは生きている、飯を食っているのだということを判っている。さっそくその夜、孫の新しい嫁がやって来て物を食べていた。「さっさと来やがって、もう。でもまあ、そういうもんだからな。」という緒形拳の表情が印象的だった。
 老いたる者は、命をリレーする為には自らはどうあるべきかを悟り、又、後に残る者たちは皆、自分たちの存在を可能にしている不動の事実に対し、畏敬と敬服の念をごく自然に有しているのだろう。(感謝などという薄っぺらい言葉ではない。)日本中にこんなことはあったのだろう。明治の頃までも。勿論、今日「お山」をその通りやるわけには行かないし、現実的ではない。成田氏の言う集団切腹とか老人安楽死ルール(映画「プラン75」のような)は、正しく現代版の「お山」そのものなのだろうが…。しかし、これを国民的コンセンサスを作って受け入れるのは、かなりハードルが高いだろう。

4.解決策としての「ソフト楢山」
 現実論的に私は、『ソフト楢山』はどうかと思う。つまり、「死ね」とは要求しないけれど、老齢で生きて行く上は、ある程度堪える位の辛抱をして頂くということだ。そもそも我国には「葉隠れ」とか「禅譲」とか言う考えがある。それにそんな高尚な概念をもちださなくとも、そもそも「隠居」という言葉がある。「隠居」とは、地味で質素なもののはずだ。それでいい。
 今の70代、団塊世代には「隠居」というイメージが全くない。ベンツのオープンカーを乗り回しているのもナナハンをぶっ飛ばして来るのも皆、白髪の70代男性だ。ステーキだの伊勢海老だのオマールだの食べたがる。いつまでもギラギラしている。年がいっても元気なのはいいと思うけど、それとは違う。そんな「団塊世代」が本当に老いていって、それでも尚、老齢ふらつき運転でオープンカーを乗り回すんだと言って聞かなかったり、そこら中でナナハンでコケて助けてくれと呻いていたり、はたまたステーキ食べ過ぎて救急車だの…となったら一体どうすればいいんだろうと、若い世代にとっては恐怖が募るばかりなのだろう。それ程に彼等は、ギラギラしていて、欲望の衰えと無縁なように見える。つまり「隠居」があり得ないようなのだ。これは恐怖だ。絶望的だ。そんなことが、背景にあるからこそ、ひと昔前なら超キテレツな異論のように思えただろう老人集団切腹説が脚光を浴びているのだと思う。こうなれば「ソフト楢山」しかないと思う。現実的には。老人が、生き長らえてしかも若い世代から今のように「やっかい物体」視されず、若い人たちも老いた人たちに暖かい目線を向けられるようになる為には…。
「ソフト楢山」とは
年金は生活保護と同レベル以上の金額のものは、全てカットする。そして「生存権」担保の為の制度に純化する。現役時代の収入格差がそのまま反映するような体系を止めて、一律化・一定の給付を行う。
一定以上の高額の資産所有者には、一切年金は支給しない。
老人の医療負担を35%にする。更に85歳以上になれば40%とする。
ムダな「医者通い」「病院サロン化」「薬漬け」をなくす。
一方、絶対に必要な生死に関わるような医療については、負担ゼロとする。
バスや電車に在る「老人優先シート」は、一切廃止する。代わりに<HELP-NEEDシート>とする。このシートは色々な事情で「しんどい」人の為のシートである。その優先順位は、
1.急性疾患やケガで痛く苦しい人
2.妊婦
3.慢性の病気、軽度の病気などで苦しい人。体力の衰えている人。
4.健康だけど今、大変疲労の激しい人
とする。これらが「ソフト楢山」の概要だ。

5.道徳の再構築
 順風満帆な経済状況の時代を生きて来た世代は「成果」を残せて当然だと言う思いを、その後の苦しい不況時代に生きて来た世代は持っているはずだ。そして今、老齢にならんとしている世代から「私たちは成果を残してきたもの。今、大切に扱ってもらって当然。」とか「君たちは根性と努力が足りないから中国に追い抜かされたんだ。」とか言われても納得できるわけはないだろう。老人だからと言う理由だけでピンピンしているのに、超ブラック労働で睡眠もままならず、ぶっ倒れそうな若者を差しおいて座る必要はないのだから。老人は、1のケースは当然だけど、大抵3には当てはまることが多いだろうから、1と2の人がいない場合は大抵、今と同じ位、席にありつけるはずだ。でも、前提として老人だから優先というのは、止めるべきだと思う。「老人」が老人なのに甘えずに立っている。これが、老人なりの社会貢献の第一歩の象徴的な姿でとてもよいと思う。そういう姿勢を老人の側から見せていかないことには、もうこれからは勤労世代から負担していくべき価値のある対象として認めていってもらえないだろう。「年長者は敬愛すべき」と言う道徳の理念根拠は、今日空虚になりつつあると思う。そこをもう一度再充填し直さないで「年寄りを敬え。大切にしろ。」と繰り返していても空しいだけだ。
 元気な老人が仕事に疲れた若者に席を進んで譲る姿こそが、これからの社会のあるべき「良俗」だとむしろ思う。そうすれば、自然と若い世代の老人への思いやりももう一度、取り戻せるのだろうと思う。今こそ老人自らが、まずそんな姿勢を見せていくべきタイミングなのだと思う。それなのに真反対のすごい本が、近頃出版されていることを知った。下重暁子著「老人をなめるな」だ。本当にこれはすごすぎる。次回は、此の本について共に考えてみたい。

日本共産党、結党以来最大のピンチ

 先のブログ投稿「2.1に寄せて」では、私なりの共産党への思いを述べたつもりだ。私は党員ではないが、今回の「松竹問題」は、大変な事態だと心配する。党の適式な手順を踏まず外部からいきなり党攻撃の言論を行ったことが除名の理由だと志位委員長の弁。それはそれで正しい論だとは思うが、そんな手続論よりそもそも松竹氏は、彼の言論から推察するにおよそ共産党員とは言えない人物だと思う。「左の自民党」とか「保守リベラルからリアリスト左翼まで中翼(仲良く)」とか憲法社会権を守っていけばそれで革命だとか、日米安保の堅持とか全く以て日本共産党の根本理念と相容れない思想だ。

 かの斎藤幸平氏との対談も拝見したが、全く二人に共通しているのは本来の社会主義実現へ向けての革命思想が欠如していることだ。科学的階級制という概念も欠如しているようだし、旧ソ連型の富国強兵的大国化主義こそが共産党が依って立つ史的唯物論そのものであるかのような言説も全くの誤りと思う。二人ともいわゆる教条主義的な古きスローガン的共産主義を批判し「自らはマルクス主義者である。」と自認しているのだが、実はマルクス主義の実質的本質的理念を否定している。中道的護憲主義や福利充実論が社会主義革命であるかのように(松竹)、又ブラックライブズマターやMe Tooのような人権運動が即ちコミュニズムそのものであるかのような言説、更には人々のあたたかい助け合いそのものがコミュニズムであり、それを土台として資本主義が成立するといった謎な論(斎藤)など、社会主義と資本主義の区別が全く否定されているというか意図的にボーダーレスにグラデーションさせようという考え方だ。典型的な修正主義者だ。2人とも。

 先の「2.1に寄せて」稿でも述べたように私としては、今の日本共産党にはもっと前衛色を強めて労働戦線の再構築の為の立役者になってもらいたいと思う。そして国民をもっと強くリードしてくれる硬派な左翼政党になって欲しい。しかしながら、いくら気長で悠長そうでピースフルじみていてもやはりその綱領を拝見すると、科学的社会主義を基本に生産手段の社会化などの社会主義を実現するとしている、又安保の廃棄と自衛隊の解消もはっきりと目指している。明らかに松竹氏は、今日の日本共産党と相容れない人物だ。キャラメルの箱の中にキャラメルのように見えてコンソメが1つ紛れ込んでいるようなものだ。

 所謂「50年問題」とか「70日和見分派」とかが、党の大きな危機だったと共産党は言う。でも、これら2つの危機で問題視された人たちは、皆、革命主義者であり、本来の社会主義建設を本旨としていたはずだ。その実現の為の方法論や具体的手法、更には政治的背景などに問題があったと断じられたのだろう。その点、今回の松竹問題ははるかに深刻だ。共産党共産党でなくしてしまう工作だからだ。「共産党はやはり共産党」であって欲しい。万一、松竹氏が党首になれば日本共産党は全く「小型立憲民主」もどきになってしまうだろう。彼がそれを目指すのなら独立して自らの新党を立ち上げるべきだ。なのに、共産党に居座って既存の党勢・基盤を自らのものにして、利用しようというのは全く卑怯だ。ただの乗っ取りだ。

 もし、1人のカソリック信者が、唐突に「神なんてなくてもいい。」「キリストってダサいキャラクターだ。」「要は、人の心の癒し。リラクゼーションとかが大切なのだからそういうことを教会でやればそれでいい。その方が人気も出る。」「聖書なんか読まなくてもスピ系みたいな本とかの方がファンも増える。」みたいなことを主張する本を出したらどうだろうか?次の日曜日、彼が教会に行けば、神父さんは、優しく、しかし峻厳な口調で「もうあなたはここへいらっしゃる必要はないのではありませんか。」と告げるだろう。当たり前だ。

 それゆえ、松竹氏が除名されたことが、言論の自由への侵害だなどという朝日新聞の言説は全く的外れである。イメージダウンのための意図的な悪意すら覚える。なのに、本来、反自民のような人で共産党に割と好感を持っていた人の多くが、同じような批判をしているのには全く失望する。「しっかりしてくれよ。」と言いたい。いわゆる「市民派」の方に多い持病だろうか。

 松竹氏は、党名も変えればよいと…。それは、彼としての当然の帰結論だろう。それゆえ、彼は絶対に別党を作って自分はそこの党首になればよいのだ。こういう分子は、そのシンパもろとももっともっと早くから「粛清」(別に「殺す」という意味ではない。)しておくべきだったと思う。今の共産党は強権的どころかむしろ民主的すぎた。寛容すぎたのだと思う。大失敗だ。大ピンチだ。松竹氏は、来年の党大会で復権を目指すと意気盛んだ。かの本を党員に売りまくると。日本共産党、本当に正念場だと思う。今、唯一の野党と呼ぶべき党として踏ん張ってほしい。外野からだが、エールを送りたい。