先のブログ投稿「2.1に寄せて」では、私なりの共産党への思いを述べたつもりだ。私は党員ではないが、今回の「松竹問題」は、大変な事態だと心配する。党の適式な手順を踏まず外部からいきなり党攻撃の言論を行ったことが除名の理由だと志位委員長の弁。それはそれで正しい論だとは思うが、そんな手続論よりそもそも松竹氏は、彼の言論から推察するにおよそ共産党員とは言えない人物だと思う。「左の自民党」とか「保守リベラルからリアリスト左翼まで中翼(仲良く)」とか憲法の社会権を守っていけばそれで革命だとか、日米安保の堅持とか全く以て日本共産党の根本理念と相容れない思想だ。
かの斎藤幸平氏との対談も拝見したが、全く二人に共通しているのは本来の社会主義実現へ向けての革命思想が欠如していることだ。科学的階級制という概念も欠如しているようだし、旧ソ連型の富国強兵的大国化主義こそが共産党が依って立つ史的唯物論そのものであるかのような言説も全くの誤りと思う。二人ともいわゆる教条主義的な古きスローガン的共産主義を批判し「自らはマルクス主義者である。」と自認しているのだが、実はマルクス主義の実質的本質的理念を否定している。中道的護憲主義や福利充実論が社会主義革命であるかのように(松竹)、又ブラックライブズマターやMe Tooのような人権運動が即ちコミュニズムそのものであるかのような言説、更には人々のあたたかい助け合いそのものがコミュニズムであり、それを土台として資本主義が成立するといった謎な論(斎藤)など、社会主義と資本主義の区別が全く否定されているというか意図的にボーダーレスにグラデーションさせようという考え方だ。典型的な修正主義者だ。2人とも。
先の「2.1に寄せて」稿でも述べたように私としては、今の日本共産党にはもっと前衛色を強めて労働戦線の再構築の為の立役者になってもらいたいと思う。そして国民をもっと強くリードしてくれる硬派な左翼政党になって欲しい。しかしながら、いくら気長で悠長そうでピースフルじみていてもやはりその綱領を拝見すると、科学的社会主義を基本に生産手段の社会化などの社会主義を実現するとしている、又安保の廃棄と自衛隊の解消もはっきりと目指している。明らかに松竹氏は、今日の日本共産党と相容れない人物だ。キャラメルの箱の中にキャラメルのように見えてコンソメが1つ紛れ込んでいるようなものだ。
所謂「50年問題」とか「70年日和見分派」とかが、党の大きな危機だったと共産党は言う。でも、これら2つの危機で問題視された人たちは、皆、革命主義者であり、本来の社会主義建設を本旨としていたはずだ。その実現の為の方法論や具体的手法、更には政治的背景などに問題があったと断じられたのだろう。その点、今回の松竹問題ははるかに深刻だ。共産党を共産党でなくしてしまう工作だからだ。「共産党はやはり共産党」であって欲しい。万一、松竹氏が党首になれば日本共産党は全く「小型立憲民主」もどきになってしまうだろう。彼がそれを目指すのなら独立して自らの新党を立ち上げるべきだ。なのに、共産党に居座って既存の党勢・基盤を自らのものにして、利用しようというのは全く卑怯だ。ただの乗っ取りだ。
もし、1人のカソリック信者が、唐突に「神なんてなくてもいい。」「キリストってダサいキャラクターだ。」「要は、人の心の癒し。リラクゼーションとかが大切なのだからそういうことを教会でやればそれでいい。その方が人気も出る。」「聖書なんか読まなくてもスピ系みたいな本とかの方がファンも増える。」みたいなことを主張する本を出したらどうだろうか?次の日曜日、彼が教会に行けば、神父さんは、優しく、しかし峻厳な口調で「もうあなたはここへいらっしゃる必要はないのではありませんか。」と告げるだろう。当たり前だ。
それゆえ、松竹氏が除名されたことが、言論の自由への侵害だなどという朝日新聞の言説は全く的外れである。イメージダウンのための意図的な悪意すら覚える。なのに、本来、反自民のような人で共産党に割と好感を持っていた人の多くが、同じような批判をしているのには全く失望する。「しっかりしてくれよ。」と言いたい。いわゆる「市民派」の方に多い持病だろうか。
松竹氏は、党名も変えればよいと…。それは、彼としての当然の帰結論だろう。それゆえ、彼は絶対に別党を作って自分はそこの党首になればよいのだ。こういう分子は、そのシンパもろとももっともっと早くから「粛清」(別に「殺す」という意味ではない。)しておくべきだったと思う。今の共産党は強権的どころかむしろ民主的すぎた。寛容すぎたのだと思う。大失敗だ。大ピンチだ。松竹氏は、来年の党大会で復権を目指すと意気盛んだ。かの本を党員に売りまくると。日本共産党、本当に正念場だと思う。今、唯一の野党と呼ぶべき党として踏ん張ってほしい。外野からだが、エールを送りたい。