京都市長選挙2024<2> ー京都の鮎釣師の皆さんへー

 上桂川(周山)は、京都の友釣りファン鮎釣り人にとって、大切な釣り場。その上桂川に今、大変な危機が。他でもない北陸新幹線京都延伸計画。上桂川の主要漁場をほぼ直撃して未曾有の大工事が計画されているのです。もし、これが実行されれば水源が枯れる・土砂が流入等で「天下一、北桑の天然鮎」と唄われ、「献上鮎の里」と尊ばれてきた上桂川も「おしまい」です。絶対に計画の根本的見直しを京都の鮎釣人なら誰でも求めるべきです。

 更に釣りだけではありません。この巨大トンネル工事が京都市の地下をぶった切って強行されれば地下水の枯渇による被害はもとより1日900台以上と言われる工事の大型ダンプが市内の居住区域の間を毎日行き交います。恐怖です。大迷惑です。幼児や子どもたちの通園通学にも大きな危険。熟年世代をはじめ市民がゆっくり公園や鴨川河川敷で憩うことも出来なくなります。自転車での買い物も恐ろしい。まさに京都市民の生活が何年にも亘って破壊されるのです。(全工期完了にはなんと30年とか!)

 今回の市長選。「鮎」を愛する京都の釣り人なら絶対にこの無謀で京都市民にとって何のメリットもない計画に「はっきり」Noと言ってくれる人を選ぶべきです。「今とりあえず賛成はしてませんよ。」ではなく「はっきり」Noと言ってくれる人を、です。直接の現場である京北の皆さんこそ「はっきり」Noと言って頂きたいです。清流上桂川こそ京北の宝です。漁業組合も京都の釣具商さん方もここらでこの計画のことをよく知って頂き、計画に見直しを求めて欲しいです。そしてそれを叶えてくれる候補者を選んでもらいたいです。

 大切な上桂川の鮎を未来に残すため、そして末永く「周山の友釣り」を楽しんでいく為に。上桂川の友釣りを愛する者として、福山和人さんを推薦いたします。

                   midori-ya

2024年京都市長選挙によせて

 私は京都市出身です。住民無視の観光至上主義。外部資本の過度な導入による「京都らしさ」の破壊。子育ての不安等々・・・。更には、閑静な洛北に全く不釣り合いな植物園周辺のレジャーパーク化や京都そのものを全壊させるような迫り来る北陸新幹線の京都延伸計画。(今、おとなりの西江州高島から故郷の近年の「惨状」を見るにつけ大変危機感を抱いてきました。)

 京都市内から滋賀県下へ移住して来られる若いご夫婦を次々とお見受けいたします。「そりゃそうだろ。」と感じざるをえません。もう抜本的に思いきった大きな改革、変革しかないと思います。今は、その時です。京都にとって。政治姿勢・政策・人間性、あらゆる面で本当に京都市民の為になるのは、福山和人氏以外にないと素直に感じます。福山氏を推薦いたします。

「共産市長が誕生したら市役所に赤い旗があがる。」もう、そんな呑気な「情緒的な」戯言を言っていられる場合ではないと思います。今の京都は。本当に実質的に京都市民の暮らしが良くなるのなら、赤い旗であろうが紫色の旗であろうが茶色の旗であろうが、そんなことはどうでも良いことではありませんか?要は「何を為すか」ではありませんか?

 近頃、亡くなられた八代亜紀さんが熱心な共産党ファンであったことは有名ですが、彼女の演歌は最高だから「リベラル」「左翼」などとは無縁なようなトラック野郎たちの多くが、八代ファンだったのです!要は「仕事の中身」です。

 他の3候補は、3人とも全くの「従来路線」か、または「似たり寄ったり」だと思います。(中でも特に松井氏が、ネトウヨ系雑誌の「HANADA」に堂々と寄稿されているのには本当に驚きました。そういう方だったのですね!)

 私自身は、共産党を支持政党としている訳ではありません。でも「共産党が推しているので」という理由だけで福山氏を外すのは、絶対に失策だと思います。いわゆる「共産ぎらい」の皆様も、もう、こうなったら一度少々不安でも賭けてみるしかないですよ。今の状況では。今の京都なら。(万一ダメなら4年後に変わってもらうという手もありますし・・・)

 私の故郷に2024年新しいすがすがしい風が吹くことを期待しています。福山さんを推薦いたします。

                 midori-ya

老人集団自決について思う

1.老人は皆切腹? 
 昨今、世間で話題になっている「老人は集団自決しろ」の問題。成田氏や同調者たちの主張を聞いて感じるのは、社会にとって負担になる老人の存在をいわば大量の核廃棄物の処理とか放射能汚染土の処分のように考えているのではないかということだ。つまり、目の前にある厄介な物(nuisance=自分とは別の「外部的」なもの)の処分の技術論になっているのではという印象だ。
 成田氏登壇のフォーラムのようなものに招待された中学生が、「老人が自動でいなくなるシステムを作るなら?」と真顔で質問していた。自分のおじいちゃんおばあちゃんとは、別の「老人」と言うモンスターのようなイメージで話しているのかという危うさ。空前の老齢化社会。あの大量の団塊世代が本格的な要お世話状態の老人どもになったら…と勤労世代や若者は、皆背筋が寒くなってくるのだろう。それは、s.34生まれの私とてよく判る。しかしながら、この問題というのは先述したような一過性の不要な「物」処理の問題ではないはずだ。それに一方、視点を変えれば老人が大挙して消滅するということは大きな市場の喪失を意味する。経済にとって大打撃であり若い世代にとっても大きな減収となろう。

2.命はリレーしていくべきもの
 私たち人間の生命(いのち)は、ここまでリレーして繋いで来たもの。だから、私たちが今在る。そして、これからもリレーして行くべきもの。どうやれば、上手く次の世代へバトンを渡せるのかという問題のはずだ。私は、花の仕事をしている。ある花は、華やかに。またある花は可憐に。又、清楚に…。その後に未来へ命を託す種を成さんが為に、力いっぱい咲き、そして潔く枯れ朽ちて行く。それ故に花は美しいのだといつも思う。そこには、少しの無駄も迷いもない。
 人間と言うものは、植物と違い「自我」というものがあり、自己実現欲、自己保全欲というものが在る。それは、当たり前だし、それ自体が悪ではない。しかし、命のリレーをしていくことと、この自己実現、自己保全という命題が相容れない状況となった時、どう私たちは判断すべきかというのがこの問題だ。決して目の前に在る「汚染土」をどう処理しようかという話ではない。

3.「楢山節考」から
 このことを考える上で、日本人誰もの頭に思い浮かぶ映画と言えば、「楢山節考」だろう。一口で言えば、命の賛歌の映画だと思う。人も色々な動物も命をリレーしていく様をある時はユーモラスに、又ある時は峻厳にリアリズムの極みの今村的手法で描写している。この問題を考える上で、是非一度は観て欲しい映画だと思う。(結構きついけど。何日間かは立ち直れない程のインパクトがある。)その村では70歳になれば「お山へ行く」というルールは、誰に対しても絶対なもので「貢献度の高い人は考慮」とかいう曖昧さはない。絶対だ。そういうことを言い出すと、こういうルールは決して上手く行かないということだろう。
 そして、命を繋ぐ為に必要なこの過酷な所業をあたかも当たり前の日常の1つとしてこなして行く様が印象的だ。「お山」へ行く前日に老婆(坂本スミ子演じる)が、畑を耕して種を蒔く。本当にこのシーンは衝撃的だった。お山のシーンよりもむしろ、心打たれたと思う。お山へ母を背負って行く山道で息子(緒形拳)は、自分も20年経ったら孫に背負われて行く。その孫も又、20年たったらひ孫に背負われてお山へ行く旨、母へ告げる。その部落では子どもに至るまでみんながそのことを判っているのだろう。子どもも先の中学生のようにどうやったら面倒なものを自然に消せるか?ではなくて、自分もやがては「そうなる。」そうでないと皆、生きては行けないのだということを判っているのだろう。それが、楢山節考の世界だ。当然、後に残っている者全てがその老婆がお山へ行ってくれたおかげでその夜、自分たちは生きている、飯を食っているのだということを判っている。さっそくその夜、孫の新しい嫁がやって来て物を食べていた。「さっさと来やがって、もう。でもまあ、そういうもんだからな。」という緒形拳の表情が印象的だった。
 老いたる者は、命をリレーする為には自らはどうあるべきかを悟り、又、後に残る者たちは皆、自分たちの存在を可能にしている不動の事実に対し、畏敬と敬服の念をごく自然に有しているのだろう。(感謝などという薄っぺらい言葉ではない。)日本中にこんなことはあったのだろう。明治の頃までも。勿論、今日「お山」をその通りやるわけには行かないし、現実的ではない。成田氏の言う集団切腹とか老人安楽死ルール(映画「プラン75」のような)は、正しく現代版の「お山」そのものなのだろうが…。しかし、これを国民的コンセンサスを作って受け入れるのは、かなりハードルが高いだろう。

4.解決策としての「ソフト楢山」
 現実論的に私は、『ソフト楢山』はどうかと思う。つまり、「死ね」とは要求しないけれど、老齢で生きて行く上は、ある程度堪える位の辛抱をして頂くということだ。そもそも我国には「葉隠れ」とか「禅譲」とか言う考えがある。それにそんな高尚な概念をもちださなくとも、そもそも「隠居」という言葉がある。「隠居」とは、地味で質素なもののはずだ。それでいい。
 今の70代、団塊世代には「隠居」というイメージが全くない。ベンツのオープンカーを乗り回しているのもナナハンをぶっ飛ばして来るのも皆、白髪の70代男性だ。ステーキだの伊勢海老だのオマールだの食べたがる。いつまでもギラギラしている。年がいっても元気なのはいいと思うけど、それとは違う。そんな「団塊世代」が本当に老いていって、それでも尚、老齢ふらつき運転でオープンカーを乗り回すんだと言って聞かなかったり、そこら中でナナハンでコケて助けてくれと呻いていたり、はたまたステーキ食べ過ぎて救急車だの…となったら一体どうすればいいんだろうと、若い世代にとっては恐怖が募るばかりなのだろう。それ程に彼等は、ギラギラしていて、欲望の衰えと無縁なように見える。つまり「隠居」があり得ないようなのだ。これは恐怖だ。絶望的だ。そんなことが、背景にあるからこそ、ひと昔前なら超キテレツな異論のように思えただろう老人集団切腹説が脚光を浴びているのだと思う。こうなれば「ソフト楢山」しかないと思う。現実的には。老人が、生き長らえてしかも若い世代から今のように「やっかい物体」視されず、若い人たちも老いた人たちに暖かい目線を向けられるようになる為には…。
「ソフト楢山」とは
年金は生活保護と同レベル以上の金額のものは、全てカットする。そして「生存権」担保の為の制度に純化する。現役時代の収入格差がそのまま反映するような体系を止めて、一律化・一定の給付を行う。
一定以上の高額の資産所有者には、一切年金は支給しない。
老人の医療負担を35%にする。更に85歳以上になれば40%とする。
ムダな「医者通い」「病院サロン化」「薬漬け」をなくす。
一方、絶対に必要な生死に関わるような医療については、負担ゼロとする。
バスや電車に在る「老人優先シート」は、一切廃止する。代わりに<HELP-NEEDシート>とする。このシートは色々な事情で「しんどい」人の為のシートである。その優先順位は、
1.急性疾患やケガで痛く苦しい人
2.妊婦
3.慢性の病気、軽度の病気などで苦しい人。体力の衰えている人。
4.健康だけど今、大変疲労の激しい人
とする。これらが「ソフト楢山」の概要だ。

5.道徳の再構築
 順風満帆な経済状況の時代を生きて来た世代は「成果」を残せて当然だと言う思いを、その後の苦しい不況時代に生きて来た世代は持っているはずだ。そして今、老齢にならんとしている世代から「私たちは成果を残してきたもの。今、大切に扱ってもらって当然。」とか「君たちは根性と努力が足りないから中国に追い抜かされたんだ。」とか言われても納得できるわけはないだろう。老人だからと言う理由だけでピンピンしているのに、超ブラック労働で睡眠もままならず、ぶっ倒れそうな若者を差しおいて座る必要はないのだから。老人は、1のケースは当然だけど、大抵3には当てはまることが多いだろうから、1と2の人がいない場合は大抵、今と同じ位、席にありつけるはずだ。でも、前提として老人だから優先というのは、止めるべきだと思う。「老人」が老人なのに甘えずに立っている。これが、老人なりの社会貢献の第一歩の象徴的な姿でとてもよいと思う。そういう姿勢を老人の側から見せていかないことには、もうこれからは勤労世代から負担していくべき価値のある対象として認めていってもらえないだろう。「年長者は敬愛すべき」と言う道徳の理念根拠は、今日空虚になりつつあると思う。そこをもう一度再充填し直さないで「年寄りを敬え。大切にしろ。」と繰り返していても空しいだけだ。
 元気な老人が仕事に疲れた若者に席を進んで譲る姿こそが、これからの社会のあるべき「良俗」だとむしろ思う。そうすれば、自然と若い世代の老人への思いやりももう一度、取り戻せるのだろうと思う。今こそ老人自らが、まずそんな姿勢を見せていくべきタイミングなのだと思う。それなのに真反対のすごい本が、近頃出版されていることを知った。下重暁子著「老人をなめるな」だ。本当にこれはすごすぎる。次回は、此の本について共に考えてみたい。

老人集団自決について思う

1.老人は皆切腹? 
 昨今、世間で話題になっている「老人は集団自決しろ」の問題。成田氏や同調者たちの主張を聞いて感じるのは、社会にとって負担になる老人の存在をいわば大量の核廃棄物の処理とか放射能汚染土の処分のように考えているのではないかということだ。つまり、目の前にある厄介な物(nuisance=自分とは別の「外部的」なもの)の処分の技術論になっているのではという印象だ。
 成田氏登壇のフォーラムのようなものに招待された中学生が、「老人が自動でいなくなるシステムを作るなら?」と真顔で質問していた。自分のおじいちゃんおばあちゃんとは、別の「老人」と言うモンスターのようなイメージで話しているのかという危うさ。空前の老齢化社会。あの大量の団塊世代が本格的な要お世話状態の老人どもになったら…と勤労世代や若者は、皆背筋が寒くなってくるのだろう。それは、s.34生まれの私とてよく判る。しかしながら、この問題というのは先述したような一過性の不要な「物」処理の問題ではないはずだ。それに一方、視点を変えれば老人が大挙して消滅するということは大きな市場の喪失を意味する。経済にとって大打撃であり若い世代にとっても大きな減収となろう。

2.命はリレーしていくべきもの
 私たち人間の生命(いのち)は、ここまでリレーして繋いで来たもの。だから、私たちが今在る。そして、これからもリレーして行くべきもの。どうやれば、上手く次の世代へバトンを渡せるのかという問題のはずだ。私は、花の仕事をしている。ある花は、華やかに。またある花は可憐に。又、清楚に…。その後に未来へ命を託す種を成さんが為に、力いっぱい咲き、そして潔く枯れ朽ちて行く。それ故に花は美しいのだといつも思う。そこには、少しの無駄も迷いもない。
 人間と言うものは、植物と違い「自我」というものがあり、自己実現欲、自己保全欲というものが在る。それは、当たり前だし、それ自体が悪ではない。しかし、命のリレーをしていくことと、この自己実現、自己保全という命題が相容れない状況となった時、どう私たちは判断すべきかというのがこの問題だ。決して目の前に在る「汚染土」をどう処理しようかという話ではない。

3.「楢山節考」から
 このことを考える上で、日本人誰もの頭に思い浮かぶ映画と言えば、「楢山節考」だろう。一口で言えば、命の賛歌の映画だと思う。人も色々な動物も命をリレーしていく様をある時はユーモラスに、又ある時は峻厳にリアリズムの極みの今村的手法で描写している。この問題を考える上で、是非一度は観て欲しい映画だと思う。(結構きついけど。何日間かは立ち直れない程のインパクトがある。)その村では70歳になれば「お山へ行く」というルールは、誰に対しても絶対なもので「貢献度の高い人は考慮」とかいう曖昧さはない。絶対だ。そういうことを言い出すと、こういうルールは決して上手く行かないということだろう。
 そして、命を繋ぐ為に必要なこの過酷な所業をあたかも当たり前の日常の1つとしてこなして行く様が印象的だ。「お山」へ行く前日に老婆(坂本スミ子演じる)が、畑を耕して種を蒔く。本当にこのシーンは衝撃的だった。お山のシーンよりもむしろ、心打たれたと思う。お山へ母を背負って行く山道で息子(緒形拳)は、自分も20年経ったら孫に背負われて行く。その孫も又、20年たったらひ孫に背負われてお山へ行く旨、母へ告げる。その部落では子どもに至るまでみんながそのことを判っているのだろう。子どもも先の中学生のようにどうやったら面倒なものを自然に消せるか?ではなくて、自分もやがては「そうなる。」そうでないと皆、生きては行けないのだということを判っているのだろう。それが、楢山節考の世界だ。当然、後に残っている者全てがその老婆がお山へ行ってくれたおかげでその夜、自分たちは生きている、飯を食っているのだということを判っている。さっそくその夜、孫の新しい嫁がやって来て物を食べていた。「さっさと来やがって、もう。でもまあ、そういうもんだからな。」という緒形拳の表情が印象的だった。
 老いたる者は、命をリレーする為には自らはどうあるべきかを悟り、又、後に残る者たちは皆、自分たちの存在を可能にしている不動の事実に対し、畏敬と敬服の念をごく自然に有しているのだろう。(感謝などという薄っぺらい言葉ではない。)日本中にこんなことはあったのだろう。明治の頃までも。勿論、今日「お山」をその通りやるわけには行かないし、現実的ではない。成田氏の言う集団切腹とか老人安楽死ルール(映画「プラン75」のような)は、正しく現代版の「お山」そのものなのだろうが…。しかし、これを国民的コンセンサスを作って受け入れるのは、かなりハードルが高いだろう。

4.解決策としての「ソフト楢山」
 現実論的に私は、『ソフト楢山』はどうかと思う。つまり、「死ね」とは要求しないけれど、老齢で生きて行く上は、ある程度堪える位の辛抱をして頂くということだ。そもそも我国には「葉隠れ」とか「禅譲」とか言う考えがある。それにそんな高尚な概念をもちださなくとも、そもそも「隠居」という言葉がある。「隠居」とは、地味で質素なもののはずだ。それでいい。
 今の70代、団塊世代には「隠居」というイメージが全くない。ベンツのオープンカーを乗り回しているのもナナハンをぶっ飛ばして来るのも皆、白髪の70代男性だ。ステーキだの伊勢海老だのオマールだの食べたがる。いつまでもギラギラしている。年がいっても元気なのはいいと思うけど、それとは違う。そんな「団塊世代」が本当に老いていって、それでも尚、老齢ふらつき運転でオープンカーを乗り回すんだと言って聞かなかったり、そこら中でナナハンでコケて助けてくれと呻いていたり、はたまたステーキ食べ過ぎて救急車だの…となったら一体どうすればいいんだろうと、若い世代にとっては恐怖が募るばかりなのだろう。それ程に彼等は、ギラギラしていて、欲望の衰えと無縁なように見える。つまり「隠居」があり得ないようなのだ。これは恐怖だ。絶望的だ。そんなことが、背景にあるからこそ、ひと昔前なら超キテレツな異論のように思えただろう老人集団切腹説が脚光を浴びているのだと思う。こうなれば「ソフト楢山」しかないと思う。現実的には。老人が、生き長らえてしかも若い世代から今のように「やっかい物体」視されず、若い人たちも老いた人たちに暖かい目線を向けられるようになる為には…。
「ソフト楢山」とは
年金は生活保護と同レベル以上の金額のものは、全てカットする。そして「生存権」担保の為の制度に純化する。現役時代の収入格差がそのまま反映するような体系を止めて、一律化・一定の給付を行う。
一定以上の高額の資産所有者には、一切年金は支給しない。
老人の医療負担を35%にする。更に85歳以上になれば40%とする。
ムダな「医者通い」「病院サロン化」「薬漬け」をなくす。
一方、絶対に必要な生死に関わるような医療については、負担ゼロとする。
バスや電車に在る「老人優先シート」は、一切廃止する。代わりに<HELP-NEEDシート>とする。このシートは色々な事情で「しんどい」人の為のシートである。その優先順位は、
1.急性疾患やケガで痛く苦しい人
2.妊婦
3.慢性の病気、軽度の病気などで苦しい人。体力の衰えている人。
4.健康だけど今、大変疲労の激しい人
とする。これらが「ソフト楢山」の概要だ。

5.道徳の再構築
 順風満帆な経済状況の時代を生きて来た世代は「成果」を残せて当然だと言う思いを、その後の苦しい不況時代に生きて来た世代は持っているはずだ。そして今、老齢にならんとしている世代から「私たちは成果を残してきたもの。今、大切に扱ってもらって当然。」とか「君たちは根性と努力が足りないから中国に追い抜かされたんだ。」とか言われても納得できるわけはないだろう。老人だからと言う理由だけでピンピンしているのに、超ブラック労働で睡眠もままならず、ぶっ倒れそうな若者を差しおいて座る必要はないのだから。老人は、1のケースは当然だけど、大抵3には当てはまることが多いだろうから、1と2の人がいない場合は大抵、今と同じ位、席にありつけるはずだ。でも、前提として老人だから優先というのは、止めるべきだと思う。「老人」が老人なのに甘えずに立っている。これが、老人なりの社会貢献の第一歩の象徴的な姿でとてもよいと思う。そういう姿勢を老人の側から見せていかないことには、もうこれからは勤労世代から負担していくべき価値のある対象として認めていってもらえないだろう。「年長者は敬愛すべき」と言う道徳の理念根拠は、今日空虚になりつつあると思う。そこをもう一度再充填し直さないで「年寄りを敬え。大切にしろ。」と繰り返していても空しいだけだ。
 元気な老人が仕事に疲れた若者に席を進んで譲る姿こそが、これからの社会のあるべき「良俗」だとむしろ思う。そうすれば、自然と若い世代の老人への思いやりももう一度、取り戻せるのだろうと思う。今こそ老人自らが、まずそんな姿勢を見せていくべきタイミングなのだと思う。それなのに真反対のすごい本が、近頃出版されていることを知った。下重暁子著「老人をなめるな」だ。本当にこれはすごすぎる。次回は、此の本について共に考えてみたい。

日本共産党、結党以来最大のピンチ

 先のブログ投稿「2.1に寄せて」では、私なりの共産党への思いを述べたつもりだ。私は党員ではないが、今回の「松竹問題」は、大変な事態だと心配する。党の適式な手順を踏まず外部からいきなり党攻撃の言論を行ったことが除名の理由だと志位委員長の弁。それはそれで正しい論だとは思うが、そんな手続論よりそもそも松竹氏は、彼の言論から推察するにおよそ共産党員とは言えない人物だと思う。「左の自民党」とか「保守リベラルからリアリスト左翼まで中翼(仲良く)」とか憲法社会権を守っていけばそれで革命だとか、日米安保の堅持とか全く以て日本共産党の根本理念と相容れない思想だ。

 かの斎藤幸平氏との対談も拝見したが、全く二人に共通しているのは本来の社会主義実現へ向けての革命思想が欠如していることだ。科学的階級制という概念も欠如しているようだし、旧ソ連型の富国強兵的大国化主義こそが共産党が依って立つ史的唯物論そのものであるかのような言説も全くの誤りと思う。二人ともいわゆる教条主義的な古きスローガン的共産主義を批判し「自らはマルクス主義者である。」と自認しているのだが、実はマルクス主義の実質的本質的理念を否定している。中道的護憲主義や福利充実論が社会主義革命であるかのように(松竹)、又ブラックライブズマターやMe Tooのような人権運動が即ちコミュニズムそのものであるかのような言説、更には人々のあたたかい助け合いそのものがコミュニズムであり、それを土台として資本主義が成立するといった謎な論(斎藤)など、社会主義と資本主義の区別が全く否定されているというか意図的にボーダーレスにグラデーションさせようという考え方だ。典型的な修正主義者だ。2人とも。

 先の「2.1に寄せて」稿でも述べたように私としては、今の日本共産党にはもっと前衛色を強めて労働戦線の再構築の為の立役者になってもらいたいと思う。そして国民をもっと強くリードしてくれる硬派な左翼政党になって欲しい。しかしながら、いくら気長で悠長そうでピースフルじみていてもやはりその綱領を拝見すると、科学的社会主義を基本に生産手段の社会化などの社会主義を実現するとしている、又安保の廃棄と自衛隊の解消もはっきりと目指している。明らかに松竹氏は、今日の日本共産党と相容れない人物だ。キャラメルの箱の中にキャラメルのように見えてコンソメが1つ紛れ込んでいるようなものだ。

 所謂「50年問題」とか「70日和見分派」とかが、党の大きな危機だったと共産党は言う。でも、これら2つの危機で問題視された人たちは、皆、革命主義者であり、本来の社会主義建設を本旨としていたはずだ。その実現の為の方法論や具体的手法、更には政治的背景などに問題があったと断じられたのだろう。その点、今回の松竹問題ははるかに深刻だ。共産党共産党でなくしてしまう工作だからだ。「共産党はやはり共産党」であって欲しい。万一、松竹氏が党首になれば日本共産党は全く「小型立憲民主」もどきになってしまうだろう。彼がそれを目指すのなら独立して自らの新党を立ち上げるべきだ。なのに、共産党に居座って既存の党勢・基盤を自らのものにして、利用しようというのは全く卑怯だ。ただの乗っ取りだ。

 もし、1人のカソリック信者が、唐突に「神なんてなくてもいい。」「キリストってダサいキャラクターだ。」「要は、人の心の癒し。リラクゼーションとかが大切なのだからそういうことを教会でやればそれでいい。その方が人気も出る。」「聖書なんか読まなくてもスピ系みたいな本とかの方がファンも増える。」みたいなことを主張する本を出したらどうだろうか?次の日曜日、彼が教会に行けば、神父さんは、優しく、しかし峻厳な口調で「もうあなたはここへいらっしゃる必要はないのではありませんか。」と告げるだろう。当たり前だ。

 それゆえ、松竹氏が除名されたことが、言論の自由への侵害だなどという朝日新聞の言説は全く的外れである。イメージダウンのための意図的な悪意すら覚える。なのに、本来、反自民のような人で共産党に割と好感を持っていた人の多くが、同じような批判をしているのには全く失望する。「しっかりしてくれよ。」と言いたい。いわゆる「市民派」の方に多い持病だろうか。

 松竹氏は、党名も変えればよいと…。それは、彼としての当然の帰結論だろう。それゆえ、彼は絶対に別党を作って自分はそこの党首になればよいのだ。こういう分子は、そのシンパもろとももっともっと早くから「粛清」(別に「殺す」という意味ではない。)しておくべきだったと思う。今の共産党は強権的どころかむしろ民主的すぎた。寛容すぎたのだと思う。大失敗だ。大ピンチだ。松竹氏は、来年の党大会で復権を目指すと意気盛んだ。かの本を党員に売りまくると。日本共産党、本当に正念場だと思う。今、唯一の野党と呼ぶべき党として踏ん張ってほしい。外野からだが、エールを送りたい。

デフレこそ私たちの味方

 春へ向け稀に見る「値上げラッシュ」らしい。本当に困ったことだ。ガソリンも全く高止まりしたまま。コロナ禍の苦しさもあって人々の暮らしは本当に大変だ。近年、この国の庶民の日常生活が低収入や慢性的な不景気(と思いません?)の下でもなんとか成り立ってきたのは、総体的に生活必需品(食料品、ティッシュ、トイレットペーパーなど)の価値が比較的低く安定していたからに他ならないと思う。つまりデフレ基調こそが、唯一の生存手段だった訳だ。 なのにそれをおびやかす「値上げブーム」だ。タメ息の止まらない奥さん方は、多かろう。

 「そろそろ皆さんにもデフレ脱却を考えて頂く時かと。新しい日本経済の飛躍の為に。」などと、日銀の回し者のような毛並みの経済学者の弁。「今の若い世代は、ずっとデフレと不景気の下で育ってきた。」だから「インフレは危ないものというアレルギーがあるのでは」?「それをそろそろ捨ててもらわないと」??「インフレに伴ってもちろん賃上げも必要とは思いますよ。だから、その意味では政治や企業にも『がんばってもらって』」???どんな風に「がんばって」下さるのだろう?賃金値上げ、ベースアップ…これは、労使の「交渉」つまり「力関係」によって決まるものだ。春闘などまさしくそうだ。ならば、今の労働力学は果たしてどうだろうか?言うまでもない。企業側の1人勝ちばかりだ。大手から中小までほとんどで。そもそも勝負と言うのは、対決する当事者が2人いるから成立するものだが、今の労働組合の大半は「連合」系だ。もし、企業の人事部が何人かを内密に出向させ、労働組合に潜入させ、反企業的な闘争を行わないように、そして会社としては「嫌だな」と思うような高いレベルの賃上げ要求は決して出さないように組合内で工作活動をしているとすれば…?ほとんどの人は、「それはひどいな。」とか「不当なことだ。」「あってはならぬ所業だ。」と言うだろう。でもちょっと待て。今の「連合」というのは、そもそも純粋に「そういうもの」なのだ。「交渉」と呼ぶべきものなど何もない。あるのは、単なる「調整」と一方向の「伝達」だけだ。そこをみんなで再確認しよう。今の春闘なんて、競馬で言えば「究極の出来レース」だ。ストも全くない。私が中学生の頃は、いつも春に京阪のストがあった。ストで春が来たと感じたものだった。

 賃上げがついてこないのに値上げだけ見切りスタートすれば、私たちの暮らしが追い詰められるのは間違いない。インフレが好景気をそして生活改善をもたらすという必然性など決してない。それに、これと言った何の公的援助もない。かの経済学者は、「そんな過渡期のアンバランスに対しては、所得の低い方々へは減税の措置で対処することも必要でしょうね。」と。一番、値上げの影響とかで苦しむのは不安定就労とか低収入な非課税世帯(今やこの国の24%!)だ。どうやって「減税によって援助する」の?そもそも物価高や値上げを「減税額」で大きくリカバーできる程の納税額の方々って、元々大富裕な方々。そんな人達、食品の値上げとかそもそも応えていないはずだ。本当に腹が立った。無責任で庶民に誤解を与える発言だ。そして彼は、「若い人たちはインフレの時代の佳さを知っている年代の人達ともっとお話しして教えて頂いたら」とも言っていた。なので、昭和の好景気もバブルも知っている世代として言わせて頂きます。「インフレ基調になれば、益々人々の間の格差が大きくなるだけ。うまみは、常に少しでもお金を沢山持っている方へと多く降ってくるもの」だったと。インフレ化は、決して今日のこの国の庶民の暮らしを楽にはしないし、むろん低所得対策にはならない。否。むしろ真逆だ。

 私は、実は自営業者(個人事業主)だ。業種は「花、園芸」だ。この業界も生産から流通、そして私たち小売りに至るまで全ての局面で苦しい。でも、なんとか各々の場面で工夫に工夫を凝らして、ガマンもして「今まで通り」を今のところ保っていると思う。量も質もサービスも勿論、何よりも価格も。何故?それは単純だ。旧知のこの業界の女性が言っていた。「不景気になったら一番先に切られるのは、花やもん。絶対、要るワケじゃないし。」つまり値上げしたら売れなくなることが、切実に他の品目よりも花の場合は実感されているのだろう。本当に厳しい。ウチも「値上げ」は検討していない。少々、卸値が上がっても耐えるしかないと思う。それが現実だ。

 それ故に言いたい。みんな「値上げ」した商品は(買わないと死ぬような事情もない限り)決して買わないようにしよう!そして、買い控えもしてガッチリ行こう。そして顕著に「値上げ反動の不景気が来た。」と経済界にそして何よりこの国の政府に実感させ、「値上げブーム」を阻止しよう!(このブームを煽っている張本人は国なのだから。)労働組合がもう一度かつてのように本来の労働者の利益を守る団結組織となって、企業側と互角の交渉が出来る「健全な労使関係」が再現されない限り「値上げ」はありえない。「賃上げありてこそ値上げ」だ。今日のこの国では、当分それはあり得ない。ならば、私たちの日々の暮らしがなんとか続くようにしてくれるのは、「徹底したデフレ基調」しかないのだ。それを決して、忘れてはならないと思う。そしてその延長線上に近頃、斎藤幸平とかが近未来の理想社会像として提示している「定常型経済」も在るのだろうと思う。

 数年前まで近くの「バロー」という食品スーパーで1コ¥18のコロッケがあった!よく私も買った。店を一旦たたんでもう一度、再開業した頃。本当に苦しかった。その頃、この18円コロッケには本当に助けられたと思う。「アレ本当に良かったなあ。おいしくて安くて!」と思っている人は、この辺では多いと思う。100均が200均になってしまったら大変だ。今日の日本では、デフレこそが私たちの味方だ。

 p.s.関係ないけど、近頃Mr.岸田の言う「育休中にキャリアアップとかの研鑽とかしてもらえるようにしっかりバックアップしていく。」って言うのは、サラリーマンの昼の休憩時間に「業務マニュアルを読むとか仕事にプラスになることをしてもらうよう推し進めて」とかいう理屈なのでは?労働強化だろ。それは。

デフレこそ私たちの味方

 春へ向け稀に見る「値上げラッシュ」らしい。本当に困ったことだ。ガソリンも全く高止まりしたまま。コロナ禍の苦しさもあって人々の暮らしは本当に大変だ。近年、この国の庶民の日常生活が低収入や慢性的な不景気(と思いません?)の下でもなんとか成り立ってきたのは、総体的に生活必需品(食料品、ティッシュ、トイレットペーパーなど)の価値が比較的低く安定していたからに他ならないと思う。つまりデフレ基調こそが、唯一の生存手段だった訳だ。 なのにそれをおびやかす「値上げブーム」だ。タメ息の止まらない奥さん方は、多かろう。

 「そろそろ皆さんにもデフレ脱却を考えて頂く時かと。新しい日本経済の飛躍の為に。」などと、日銀の回し者のような毛並みの経済学者の弁。「今の若い世代は、ずっとデフレと不景気の下で育ってきた。」だから「インフレは危ないものというアレルギーがあるのでは」?「それをそろそろ捨ててもらわないと」??「インフレに伴ってもちろん賃上げも必要とは思いますよ。だから、その意味では政治や企業にも『がんばってもらって』」???どんな風に「がんばって」下さるのだろう?賃金値上げ、ベースアップ…これは、労使の「交渉」つまり「力関係」によって決まるものだ。春闘などまさしくそうだ。ならば、今の労働力学は果たしてどうだろうか?言うまでもない。企業側の1人勝ちばかりだ。大手から中小までほとんどで。そもそも勝負と言うのは、対決する当事者が2人いるから成立するものだが、今の労働組合の大半は「連合」系だ。もし、企業の人事部が何人かを内密に出向させ、労働組合に潜入させ、反企業的な闘争を行わないように、そして会社としては「嫌だな」と思うような高いレベルの賃上げ要求は決して出さないように組合内で工作活動をしているとすれば…?ほとんどの人は、「それはひどいな。」とか「不当なことだ。」「あってはならぬ所業だ。」と言うだろう。でもちょっと待て。今の「連合」というのは、そもそも純粋に「そういうもの」なのだ。「交渉」と呼ぶべきものなど何もない。あるのは、単なる「調整」と一方向の「伝達」だけだ。そこをみんなで再確認しよう。今の春闘なんて、競馬で言えば「究極の出来レース」だ。ストも全くない。私が中学生の頃は、いつも春に京阪のストがあった。ストで春が来たと感じたものだった。

 賃上げがついてこないのに値上げだけ見切りスタートすれば、私たちの暮らしが追い詰められるのは間違いない。インフレが生活改善をもたらすという必然性など決してない。それに、これと言った何の公的援助もない。かの経済学者は、「そんな過渡期のアンバランスに対しては、所得の低い方々へは減税の措置で対処することも必要でしょうね。」と。一番、値上げの影響とかで苦しむのは不安定就労とか低収入な非課税世帯(今やこの国の24%!)だ。どうやって「減税によって援助する」の?そもそも物価高や値上げを「減税額」で大きくリカバーできる程の納税額の方々って、元々大富裕な方々。そんな人達、食品の値上げとかそもそも応えていないはずだ。本当に腹が立った。無責任で庶民に誤解を与える発言だ。そして彼は、「若い人たちはインフレの時代の佳さを知っている年代の人達ともっとお話しして教えて頂いたら」とも言っていた。なので、昭和の好景気もバブルも知っている世代として言わせて頂きます。「インフレ基調になれば、益々人々の間の格差が大きくなるだけ。うまみは、常に少しでもお金を沢山持っている方へと多く降ってくるもの」だったと。インフレ化は、決して今日のこの国の庶民の暮らしを楽にはしないし、むろん低所得対策にはならない。否。むしろ真逆だ。

 私は、実は自営業者(個人事業主)だ。業種は「花、園芸」だ。この業界も生産から流通、そして私たち小売りに至るまで全ての局面で苦しい。でも、なんとか各々の場面で工夫に工夫を凝らして、ガマンもして「今まで通り」を今のところ保っていると思う。量も質もサービスも勿論、何よりも価格も。何故?それは単純だ。旧知のこの業界の女性が言っていた。「不景気になったら一番先に切られるのは、花やもん。絶対、要るワケじゃないし。」つまり値上げしたら売れなくなることが、切実に他の品目よりも花の場合は実感されているのだろう。本当に厳しい。ウチも「値上げ」は検討していない。少々、卸値が上がっても耐えるしかないと思う。それが現実だ。

 それ故に言いたい。みんな「値上げ」した商品は(買わないと死ぬような事情もない限り)決して買わないようにしよう!そして、買い控えもしてガッチリ行こう。そして顕著に「値上げ反動の不景気が来た。」と経済界にそして何よりこの国の政府に実感させ、「値上げブーム」を阻止しよう!(このブームを煽っている張本人は国なのだから。)労働組合がもう一度かつてのように本来の労働者の利益を守る団結組織となって、企業側と互角の交渉が出来る「健全な労使関係」が再現されない限り「値上げ」はありえない。「賃上げありてこそ値上げ」だ。今日のこの国では、当分それはあり得ない。ならば、私たちの日々の暮らしがなんとか続くようにしてくれるのは、「徹底したデフレ基調」しかないのだ。それを決して、忘れてはならないと思う。そしてその延長線上に近頃、斎藤幸平とかが近未来の理想社会像として提示している「定常型経済」も在るのだろうと思う。

 数年前まで近くの「バロー」という食品スーパーで1コ¥18のコロッケがあった!よく私も買った。店を一旦たたんでもう一度、再開業した頃。本当に苦しかった。その頃、この18円コロッケには本当に助けられたと思う。「アレ本当に良かったなあ。おいしくて安くて!」と思っている人は、この辺では多いと思う。100均が200均になってしまったら大変だ。今日の日本では、デフレこそが私たちの味方だ。

 p.s.関係ないけど、近頃Mr.岸田の言う「育休中にキャリアアップとかの研鑽とかしてもらえるようにしっかりバックアップしていく。」って言うのは、サラリーマンの昼の休憩時間に「業務マニュアルを読むとか仕事にプラスになることをしてもらうよう推し進めて」とかいう理屈なのでは?労働強化だろ。それは。