「2.1」に寄せて

 76年前の21日。日本人の運命を分けたその日。
2.1ゼネストと聞いて「ピン」と来る人は少なくなっただろう。76年前の明日、21日。
この国は、「天ノ岩戸」以来と言うべき重大な運命の日を迎えようとしていた。対米協調の下、強権的な姿勢を国民に対し強めていた吉田茂内閣に対し、全国約600万人の労働者が団結し、空前のゼネストが予定された。賃上げ等の労働条件改善だけでなく、様々な民主化の要求や対米軍事的従属関係の否定等が提示され、もしそれらが実現されれば対米従属を土台にした企業経済本位の社会ではなく、市民本位の労働者の地位と発言権が尊重される日本へと、この国は生まれ変わるはずだった。

 21日。この国のすべてが変わるはずだった。ゼネストとは、全国民が自分たち全員を人質にして要求する闘い。76年前の今日、131日、人々は固唾を飲んで静かな時縞が流れたのだろう。結果は余りにもあわれでお粗末だった。ゼネストリーダーの伊井弥四郎はマッカーサーの命令に屈服してゼネスト中止を決定。2.1ゼネストのことを初めて知ったのは、中2の時。余りに悔しくて腹が立って涙が出た。「伊井のアホ。死ね。」と何度も叫んでいたのを覚えている。どうして上手く逃げながらでも徹底決行を訴え続けなかったのかと。その日…この国の人々は、自分たちの将来を自分たちで切り拓くという大きな宝を失った。一人ひとりが単なる労働力でも国家のリゾースでも無一物でもなく、主(あるじ)であるということを誇らしく示す機を失った。

 その後、この国は日米安保の下、今日に至った。その「完成形」がいわゆる「安倍政治」に他ならない。世界の中でも際立つ低賃金、福祉の切り捨て、年金不安、防衛の為と言う重税化、コロナ無策…。それに追い打ちをかける物価高とそれを放置、否、むしろ推し進めようとする政府。ブラック労働も後を絶たない…。色々な苦難がこの国の人々を取り巻いているけど、何と言っても近頃、驚愕したのは例のJR西日本の立往生事故。被害にあった方々の心労はいかばかりかと。勿論、健康被害も多々。私もかつてサラリーマン時代にJRの人身事故で50分位停止されただけでもかなわないなぁと思ったのに…。6時間10時間12時間とか…しかも寒中に。コロナ&インフルエンザの蔓延期に。全く言語道断だ。民営化以来そもそも利益追求・合理化ばかりを追及してきた体質が「保線」という鉄道の基本をおろそかにしていたのでは、という指摘も出ている。それもそうかも知れないが、私が心から驚愕するのは被害にあった乗客たちが「病的」なまでにおとなしいことだ。そして、「必要以上」に「無駄に」忍耐強かったことだ。そして自発的、自己判断的な行動がなかったことだ。大半は、サラリーマンだろう。「自分一人が声を上げてもムダ。」「与えられた状況の下で少しでも楽に仕事を終わらせるよう工夫するだけ。」「不正義だの理不尽だの筋が通ってないだの納得できないだの」言っても「言ってる時間だけ無駄なだけ。黙って少しでも早く与えられた仕事をすませた方が幸せ。」そんな日頃からの隷従性があの局面で発揮されたのだろう。言われるままに監禁、言われるままに寒中の線路を長時間、行進。言われるままにコンビニのビスケット1箱だけ与えられて、板のフロアに何の夜具もなく仮眠させられ、「ビスケットもらえてうれしかった。」とまるで戦時捕虜か。アイヒマンによって強制収容所へ送られるユダヤ人のような扱い。何の補償も未だ提示されないのに集団訴訟といったような目立ったアクションの気配も未だない。

 元々、日本人は欧米人やお隣の韓国の人々と比べて、国家や大きい組織の不正、不正義に対して遠慮せず抗議したり、強い怒りを爆発させることが極めて少ない民族性の持ち主なのだろう。(私はそれが美徳だとは思わないが。)

 けれど近年、特にその傾向が極まっているようだ。国民が政府に「言っても無駄」「言うと却って逆の施策」その上で「今の日本は素晴らしい国。戦後最高の好景気」「未来は夢だらけ」そんなメッセージばかり。マスコミは全く「政府報道官」。政権に辛口なことを指摘する番組は既に全てつぶした。(古館の報道ステーションなど)あきらめと不安の中で「少しでも無難な態度をとって生きて行くのが賢明」「正論と思っても政治のあり方や政権を批判するだけ無駄で却って愚か」そんな諦観が現状を取り巻いている。強権も抑圧もない中で骨の髄を腐らせるように着々と国民の主体性と主権者意識を奪って行った。

 これこそが安倍政治の真骨頂だったと思う。政治状況を見てもほとんどの自称『野党』は、自民党の外濠。その上、そんな風になってしまった国民相手なら何をやってもやりたい放題。本当に今の内閣は、楽なものだ。故安倍さんの「おかげ」。莫大な国費を使って国葬位やらないと恩義に反すると岸田氏はじめ自民党諸氏が考えるのも当然だろうか。今の日本人の政治政権への満足度は案外高いのだろうと思う。それは、判っているつもりだ。でもあえて言いたい。「被害を受けていることを自覚することすら出来ない」のが最大の不幸であると。

 近頃、流行りの「怒りのおさえ方」(アンガーコントロール)とか「幸せとあなたが思えばそれで幸せ」とか言うスピ本とかはその手の国民統制用出版だと思う。オール与党的な政治地図を見るにつけ、議会制民主主義の枠内で今のこの国の政治を大きく変えるのは、未来永劫に絶対不可能だろうと思う。

 国民・市民・人民、呼び方は何でもいいけど私たち自身による直接の行動しか世の中を変える手段はない。でも「デモ」をいくらやっても余り(というか全く)応えないと思う。要するに、彼等の「困る」ことをやらないと動かない。いきなり暴動とか爆弾闘争とか言う気はない。そうではない。決定的なのは、絶対に鍵を握っているのは労働戦線の再構築だ。企業の人事部になっている今の連合が、労働組合ではない。断じてない。本来の労働組合を作り直すのだ。闘える団結を。そしてストだ。ストこそ我々に与えられた最大の武器だ。だからこそ今、徹底的にそれがやりにくいような「風土」が作り上げられているのだ。法でなく「風土」が。何故なら今でも「スト権」は、ちゃんと存在するのにストをしようという労働組合はほんとに少ない…。(公務員のスト権も奪還すべきだとは思うが。)

 日本人と言うのは本当に「自分が主体」になって行動するのが下手くそだ。一方で仰ぎ見る旗があれば、その下で本当に熱心に勇敢に戦えるものだ。だから乱暴に言うと、明治維新も2.1ゼネストも構造は同じだった。「錦の御旗」か「赤旗」か旗の色が違っただけだ。市民運動を否定する気は全くないが、やはり世の中を大きく改善しもっと全ての人々が幸せに安心して暮らせるようにする為には、一定の政治的専門家集団が人々を導き、扇動し、盛り上げそして運動の随所随所で人々を的確に指導し、又、バックアップすることが特にこの国では、この民族に対しては不可欠だと思う。これを俗に「前衛」と言う。それがないと、個々の「なま」の市民運動では決して今の世の中は変わらないと思う。

 今の世の中を見渡してみると、「やはり」なのか「残念ながら」なのか「たまたま」なのかよく判らないが、それが出来そうなのは、一応日本共産党しかないと思う。近頃、共産党の議員さんから「是非とも党員になってください。」とお誘いを受けている。でもどうも首をタテにはふれないし、今の共産党を政党として正面から支持する気にはなれない。細かい論点はいくつもあるけど、要するにわかりやすく言うと、今の共産党は「お上品」で「のん気」で「文化人的」であり、「我こそが正統の左翼」というプライドは高い余裕のあるシニア世代の為の党というイメージなのだ。とにかくまず第一に考え直してもらいたいのが「敵の出方」理論の否定だ。もっと「危険視」される位の行動的なそして扇動的な前衛政党になってもらいたい。気になるのは、近頃の日本共産党は色々な宣伝物などでブルーとかピンクとかそんなピースフルすぎる色を好んで使っていることだ。「赤」が少ない。逆に近頃、自民党は「赤」を積極的に取り入れてパワフルさと情熱をアピール出来ているようだ。これでは、全くいけない。

 『もう一度、革命の「赤」を取り戻してほしい。』これこそが、私が今の日本共産党に望むことだ。安保でも天皇制でも「国民の総意に基づいた上で」廃止するなどとソフトで回りくどいことを言っているのではなく、「ぶっつぶす」と叫んでほしい。中身は何もないのに、でたらめのリーダーシップだけをどなっているチンピラ集団のような政党がむしろ大躍進しているのを見ればわかると思うが、日本人は、実は強く引っ張ってくれる新しい政党を望んでいるはずだ。「暴力政党では決してありません云々」といった「よい子宣言」ばかりしていても何も人気は出ない。その辺をわかってもらいたい。今の「日本共産党」には。本当に「赤」の似合う政党にもう一度なってくれたら、入党するかもしれないと思う。ゼネストを主導できるのは、あなた達しかないのだから。そして最後に言いたい。「今度こそ決行だ。」と。

「2.1」に寄せて

 76年前の21日。日本人の運命を分けたその日。
2.1ゼネストと聞いて「ピン」と来る人は少なくなっただろう。76年前の明日、21日。
この国は、「天ノ岩戸」以来と言うべき重大な運命の日を迎えようとしていた。対米協調の下、強権的な姿勢を国民に対し強めていた吉田茂内閣に対し、全国約600万人の労働者が団結し、空前のゼネストが予定された。賃上げ等の労働条件改善だけでなく、様々な民主化の要求や日米安保破棄が提示され、もしそれらが実現されれば対米従属を土台にした企業経済本位の社会ではなく、市民本位の労働者の地位と発言権が尊重される日本へと、この国は生まれ変わるはずだった。

 21日。この国のすべてが変わるはずだった。ゼネストとは、全国民が自分たち全員を人質にして要求する闘い。76年前の今日、131日、人々は固唾を飲んで静かな時縞が流れたのだろう。結果は余りにもあわれでお粗末だった。ゼネストリーダーの伊井弥四郎はマッカーサーの命令に屈服してゼネスト中止を決定。2.1ゼネストのことを初めて知ったのは、中2の時。余りに悔しくて腹が立って涙が出た。「伊井のアホ。死ね。」と何度も叫んでいたのを覚えている。どうして上手く逃げながらでも徹底決行を訴え続けなかったのかと。その日…この国の人々は、自分たちの将来を自分たちで切り拓くという大きな宝を失った。一人ひとりが単なる労働力でも国家のリゾースでも無一物でもなく、主(あるじ)であるということを誇らしく示す機を失った。

 その後、この国は日米安保の下、今日に至った。その「完成形」がいわゆる「安倍政治」に他ならない。世界の中でも際立つ低賃金、福祉の切り捨て、年金不安、防衛の為と言う重税化、コロナ無策…。それに追い打ちをかける物価高とそれを放置、否、むしろ推し進めようとする政府。ブラック労働も後を絶たない…。色々な苦難がこの国の人々を取り巻いているけど、何と言っても近頃、驚愕したのは例のJR西日本の立往生事故。被害にあった方々の心労はいかばかりかと。勿論、健康被害も多々。私もかつてサラリーマン時代にJRの人身事故で50分位停止されただけでもかなわないなぁと思ったのに…。6時間10時間12時間とか…しかも寒中に。コロナ&インフルエンザの蔓延期に。全く言語道断だ。民営化以来そもそも利益追求・合理化ばかりを追及してきた体質が「保線」という鉄道の基本をおろそかにしていたのでは、という指摘も出ている。それもそうかも知れないが、私が心から驚愕するのは被害にあった乗客たちが「病的」なまでにおとなしいことだ。そして、「必要以上」に「無駄に」忍耐強かったことだ。そして自発的、自己判断的な行動がなかったことだ。大半は、サラリーマンだろう。「自分一人が声を上げてもムダ。」「与えられた状況の下で少しでも楽に仕事を終わらせるよう工夫するだけ。」「不正義だの理不尽だの筋が通ってないだの納得できないだの」言っても「言ってる時間だけ無駄なだけ。黙って少しでも早く与えられた仕事をすませた方が幸せ。」そんな日頃からの隷従性があの局面で発揮されたのだろう。言われるままに監禁、言われるままに寒中の線路を長時間、行進。言われるままにコンビニのビスケット1箱だけ与えられて、板のフロアに何の夜具もなく仮眠させられ、「ビスケットもらえてうれしかった。」とまるで戦時捕虜か。アイヒマンによって強制収容所へ送られるユダヤ人のような扱い。何の補償も未だ提示されないのに集団訴訟といったような目立ったアクションの気配も未だない。

 元々、日本人は欧米人やお隣の韓国の人々と比べて、国家や大きい組織の不正、不正義に対して遠慮せず抗議したり、強い怒りを爆発させることが極めて少ない民族性の持ち主なのだろう。(私はそれが美徳だとは思わないが。)

 けれど近年、特にその傾向が極まっているようだ。国民が政府に「言っても無駄」「言うと却って逆の施策」その上で「今の日本は素晴らしい国。戦後最高の好景気」「未来は夢だらけ」そんなメッセージばかり。マスコミは全く「政府報道官」。政権に辛口なことを指摘する番組は既に全てつぶした。(古館の報道ステーションなど)あきらめと不安の中で「少しでも無難な態度をとって生きて行くのが賢明」「正論と思っても政治のあり方や政権を批判するだけ無駄で却って愚か」そんな諦観が現状を取り巻いている。強権も抑圧もない中で骨の髄を腐らせるように着々と国民の主体性と主権者意識を奪って行った。

 これこそが安倍政治の真骨頂だったと思う。政治状況を見てもほとんどの自称『野党』は、自民党の外濠。その上、そんな風になってしまった国民相手なら何をやってもやりたい放題。本当に今の内閣は、楽なものだ。故安倍さんの「おかげ」。莫大な国費を使って国葬位やらないと恩義に反すると岸田氏はじめ自民党諸氏が考えるのも当然だろうか。今の日本人の政治政権への満足度は案外高いのだろうと思う。それは、判っているつもりだ。でもあえて言いたい。「被害を受けていることを自覚することすら出来ない」のが最大の不幸であると。

 近頃、流行りの「怒りのおさえ方」(アンガーコントロール)とか「幸せとあなたが思えばそれで幸せ」とか言うスピ本とかはその手の国民統制用出版だと思う。オール与党的な政治地図を見るにつけ、議会制民主主義の枠内で今のこの国の政治を大きく変えるのは、未来永劫に絶対不可能だろうと思う。

 国民・市民・人民、呼び方は何でもいいけど私たち自身による直接の行動しか世の中を変える手段はない。でも「デモ」をいくらやっても余り(というか全く)応えないと思う。要するに、彼等の「困る」ことをやらないと動かない。いきなり暴動とか爆弾闘争とか言う気はない。そうではない。決定的なのは、絶対に鍵を握っているのは労働戦線の再構築だ。企業の人事部になっている今の連合が、労働組合ではない。断じてない。本来の労働組合を作り直すのだ。闘える団結を。そしてストだ。ストこそ我々に与えられた最大の武器だ。だからこそ今、徹底的にそれがやりにくいような「風土」が作り上げられているのだ。法でなく「風土」が。何故なら今でも「スト権」は、ちゃんと存在するのにストをしようという労働組合はほんとに少ない…。(公務員のスト権も奪還すべきだとは思うが。)

 日本人と言うのは本当に「自分が主体」になって行動するのが下手くそだ。一方で仰ぎ見る旗があれば、その下で本当に熱心に勇敢に戦えるものだ。だから乱暴に言うと、明治維新も2.1ゼネストも構造は同じだった。「錦の御旗」か「赤旗」か旗の色が違っただけだ。市民運動を否定する気は全くないが、やはり世の中を大きく改善しもっと全ての人々が幸せに安心して暮らせるようにする為には、一定の政治的専門家集団が人々を導き、扇動し、盛り上げそして運動の随所随所で人々を的確に指導し、又、バックアップすることが特にこの国では、この民族に対しては不可欠だと思う。これを俗に「前衛」と言う。それがないと、個々の「なま」の市民運動では決して今の世の中は変わらないと思う。

 今の世の中を見渡してみると、「やはり」なのか「残念ながら」なのか「たまたま」なのかよく判らないが、それが出来そうなのは、一応日本共産党しかないと思う。近頃、共産党の議員さんから「是非とも党員になってください。」とお誘いを受けている。でもどうも首をタテにはふれないし、今の共産党を政党として正面から支持する気にはなれない。細かい論点はいくつもあるけど、要するにわかりやすく言うと、今の共産党は「お上品」で「のん気」で「文化人的」であり、「我こそが正統の左翼」というプライドは高い余裕のあるシニア世代の為の党というイメージなのだ。とにかくまず第一に考え直してもらいたいのが「敵の出方」理論の否定だ。もっと「危険視」される位の行動的なそして扇動的な前衛政党になってもらいたい。気になるのは、近頃の日本共産党は色々な宣伝物などでブルーとかピンクとかそんなピースフルすぎる色を好んで使っていることだ。「赤」が少ない。逆に近頃、自民党は「赤」を積極的に取り入れてパワフルさと情熱をアピール出来ているようだ。これでは、全くいけない。

 『もう一度、革命の「赤」を取り戻してほしい。』これこそが、私が今の日本共産党に望むことだ。安保でも天皇制でも「国民の総意に基づいた上で」廃止するなどとソフトで回りくどいことを言っているのではなく、「ぶっつぶす」と叫んでほしい。中身は何もないのに、でたらめのリーダーシップだけをどなっているチンピラ集団のような政党がむしろ大躍進しているのを見ればわかると思うが、日本人は、実は強く引っ張ってくれる新しい政党を望んでいるはずだ。「暴力政党では決してありません云々」といった「よい子宣言」ばかりしていても何も人気は出ない。その辺をわかってもらいたい。今の「日共」には。本当に「赤」の似合う政党にもう一度なってくれたら、入党するかもしれないと思う。ゼネストを主導できるのは、あなた達しかないのだから。

「2.1」に寄せて

 76年前の21日。日本人の運命を分けたその日。
2.1ゼネストと聞いて「ピン」と来る人は少なくなっただろう。76年前の明日、21日。
この国は、「天ノ岩戸」以来と言うべき重大な運命の日を迎えようとしていた。対米協調の下、強権的な姿勢を国民に対し強めていた吉田茂内閣に対し、全国約600万人の労働者が団結し、空前のゼネストが予定された。賃上げ等の労働条件改善だけでなく、様々な民主化の要求や日米安保破棄が提示され、もしそれらが実現されれば対米従属を土台にした企業経済本位の社会ではなく、市民本位の労働者の地位と発言権が尊重される日本へと、この国は生まれ変わるはずだった。

 21日。この国のすべてが変わるはずだった。ゼネストとは、全国民が自分たち全員を人質にして要求する闘い。76年前の今日、131日、人々は固唾を飲んで静かな時縞が流れたのだろう。結果は余りにもあわれでお粗末だった。ゼネストリーダーの伊井弥四郎はマッカーサーの命令に屈服してゼネスト中止を決定。2.1ゼネストのことを初めて知ったのは、中2の時。余りに悔しくて腹が立って涙が出た。「伊井のアホ。死ね。」と何度も叫んでいたのを覚えている。どうして上手く逃げながらでも徹底決行を訴え続けなかったのかと。その日…この国の人々は、自分たちの将来を自分たちで切り拓くという大きな宝を失った。一人ひとりが単なる労働力でも国家のリゾースでも無一物でもなく、主(あるじ)であるということを誇らしく示す機を失った。

 その後、この国は日米安保の下、今日に至った。その「完成形」がいわゆる「安倍政治」に他ならない。世界の中でも際立つ低賃金、福祉の切り捨て、年金不安、防衛の為と言う重税化、コロナ無策…。それに追い打ちをかける物価高とそれを放置、否、むしろ推し進めようとする政府。ブラック労働も後を絶たない…。色々な苦難がこの国の人々を取り巻いているけど、何と言っても近頃、驚愕したのは例のJR西日本の立往生事故。被害にあった方々の心労はいかばかりかと。勿論、健康被害も多々。私もかつてサラリーマン時代にJRの人身事故で50分位停止されただけでもかなわないなぁと思ったのに…。6時間10時間12時間とか…しかも寒中に。コロナ&インフルエンザの蔓延期に。全く言語道断だ。民営化以来そもそも利益追求・合理化ばかりを追及してきた体質が「保線」という鉄道の基本をおろそかにしていたのでは、という指摘も出ている。それもそうかも知れないが、私が心から驚愕するのは被害にあった乗客たちが「病的」なまでにおとなしいことだ。そして、「必要以上」に「無駄に」忍耐強かったことだ。そして自発的、自己判断的な行動がなかったことだ。大半は、サラリーマンだろう。「自分一人が声を上げてもムダ。」「与えられた状況の下で少しでも楽に仕事を終わらせるよう工夫するだけ。」「不正義だの理不尽だの筋が通ってないだの納得できないだの」言っても「言ってる時間だけ無駄なだけ。黙って少しでも早く与えられた仕事をすませた方が幸せ。」そんな日頃からの隷従性があの局面で発揮されたのだろう。言われるままに監禁、言われるままに寒中の線路を長時間、行進。言われるままにコンビニのビスケット1箱だけ与えられて、板のフロアに何の夜具もなく仮眠させられ、「ビスケットもらえてうれしかった。」とまるで戦時捕虜か。アイヒマンによって強制収容所へ送られるユダヤ人のような扱い。何の補償も未だ提示されないのに集団訴訟といったような目立ったアクションの気配も未だない。

 元々、日本人は欧米人やお隣の韓国の人々と比べて、国家や大きい組織の不正、不正義に対して遠慮せず抗議したり、強い怒りを爆発させることが極めて少ない民族性の持ち主なのだろう。(私はそれが美徳だとは思わないが。)

 けれど近年、特にその傾向が極まっているようだ。国民が政府に「言っても無駄」「言うと却って逆の施策」その上で「今の日本は素晴らしい国。戦後最高の好景気」「未来は夢だらけ」そんなメッセージばかり。マスコミは全く「政府報道官」。政権に辛口なことを指摘する番組は既に全てつぶした。(古館の報道ステーションなど)あきらめと不安の中で「少しでも無難な態度をとって生きて行くのが賢明」「正論と思っても政治のあり方や政権を批判するだけ無駄で却って愚か」そんな諦観が現状を取り巻いている。強権も抑圧もない中で骨の髄を腐らせるように着々と国民の主体性と主権者意識を奪って行った。

 これこそが安倍政治の真骨頂だったと思う。政治状況を見てもほとんどの自称『野党』は、自民党の外濠。その上、そんな風になってしまった国民相手なら何をやってもやりたい放題。本当に今の内閣は、楽なものだ。故安倍さんの「おかげ」。莫大な国費を使って国葬位やらないと恩義に反すると岸田氏はじめ自民党諸氏が考えるのも当然だろうか。今の日本人の政治政権への満足度は案外高いのだろうと思う。それは、判っているつもりだ。でもあえて言いたい。「被害を受けていることを自覚することすら出来ない」のが最大の不幸であると。

 近頃、流行りの「怒りのおさえ方」(アンガーコントロール)とか「幸せとあなたが思えばそれで幸せ」とか言うスピ本とかはその手の国民統制用出版だと思う。オール与党的な政治地図を見るにつけ、議会制民主主義の枠内で今のこの国の政治を大きく変えるのは、未来永劫に絶対不可能だろうと思う。

 国民・市民・人民、呼び方は何でもいいけど私たち自身による直接の行動しか世の中を変える手段はない。でも「デモ」をいくらやっても余り(というか全く)応えないと思う。要するに、彼等の「困る」ことをやらないと動かない。いきなり暴動とか爆弾闘争とか言う気はない。そうではない。決定的なのは、絶対に鍵を握っているのは労働戦線の再構築だ。企業の人事部になっている今の連合が、労働組合ではない。断じてない。本来の労働組合を作り直すのだ。闘える団結を。そしてストだ。ストこそ我々に与えられた最大の武器だ。だからこそ今、徹底的にそれがやりにくいような「風土」が作り上げられているのだ。法でなく「風土」が。何故なら今でも「スト権」は、ちゃんと存在するのにストをしようという労働組合はほんとに少ない…。(公務員のスト権も奪還すべきだとは思うが。)

 日本人と言うのは本当に「自分が主体」になって行動するのが下手くそだ。一方で仰ぎ見る旗があれば、その下で本当に熱心に勇敢に戦えるものだ。だから乱暴に言うと、明治維新も2.1ゼネストも構造は同じだった。「錦の御旗」か「赤旗」か旗の色が違っただけだ。市民運動を否定する気は全くないが、やはり世の中を大きく改善しもっと全ての人々が幸せに安心して暮らせるようにする為には、一定の政治的専門家集団が人々を導き、扇動し、盛り上げそして運動の随所随所で人々を的確に指導し、又、バックアップすることが特にこの国では、この民族に対しては不可欠だと思う。これを俗に「前衛」と言う。それがないと、個々の「なま」の市民運動では決して今の世の中は変わらないと思う。

 今の世の中を見渡してみると、「やはり」なのか「残念ながら」なのか「たまたま」なのかよく判らないが、それが出来そうなのは、一応日本共産党しかないと思う。近頃、共産党の議員さんから「是非とも党員になってください。」とお誘いを受けている。でもどうも首をタテにはふれないし、今の共産党を政党として正面から支持する気にはなれない。細かい論点はいくつもあるけど、要するにわかりやすく言うと、今の共産党は「お上品」で「のん気」で「文化人的」であり、「我こそが正統の左翼」というプライドは高い余裕のあるシニア世代の為の党というイメージなのだ。とにかくまず第一に考え直してもらいたいのが「敵の出方」理論の否定だ。もっと「危険視」される位の行動的なそして扇動的な前衛政党になってもらいたい。気になるのは、近頃の日本共産党は色々な宣伝物などでブルーとかピンクとかそんなピースフルすぎる色を好んで使っていることだ。「赤」が少ない。逆に近頃、自民党は「赤」を積極的に取り入れてパワフルさと情熱をアピール出来ているようだ。これでは、全くいけない。

 『もう一度、革命の「赤」を取り戻してほしい。』これこそが、私が今の日本共産党に望むことだ。安保でも天皇制でも「国民の総意に基づいた上で」廃止するなどとソフトで回りくどいことを言っているのではなく、「ぶっつぶす」と叫んでほしい。中身は何もないのに、でたらめのリーダーシップだけをどなっているチンピラ集団のような政党がむしろ大躍進しているのを見ればわかると思うが、日本人は、実は強く引っ張ってくれる新しい政党を望んでいるはずだ。「暴力政党では決してありません云々」といった「よい子宣言」ばかりしていても何も人気は出ない。その辺をわかってもらいたい。今の「日共」には。本当に「赤」の似合う政党にもう一度なってくれたら、入党するかもしれないと思う。ゼネストを主導できるのは、あなた達しかないのだから。

2023年 年頭に

 ミャンマーウクライナ。戦火の止むことのない新年です。本当に人間の愚かさを感じずにはおれません。しかしながら足許に目を転ずると最も鎮痛なのはコロナの危機的感染拡大に他なりません。かの、近代稀に見る大陸戦のウクライナ戦争でのウクライナ側の日々の犠牲者は推定(軍民合わせ)300~400人程度とのこと。我国の近頃の1日のコロナ死者は500人超も。この「事実」は、極めて重大です。テレビ番組のコメンテーターの「コロナはもう軽く扱っていい時代に入った。」などという無責任な「メッセージ」を鵜呑みにしてはいけません。種々の後遺症も。又、このウィルスは回復後も体内に生存して10年~20年位たっても様々な厄介な病気となって人を苦しめるのではという研究者の指摘も。ワクチンも救世主とはなりえず、何回でもかかってしまう…。決定打と言えるような治療薬も未だ我々の手には届かない…。コロナは決して風邪でもインフルエンザでもない未知の恐ろしい感染症であることを今一度、我々はしっかりと認識しなければならないと思います。でも一方でこの病気はとても単純です。1ヶ月間でいい。「1人30万円配るからむやみに外出するな。」と国中で決めて実行し、その後は外国から入国する者は「全て」2週間隔離・検査すれば、この国からほぼ一切この病気はなくなったはずです。その後は、散発的局地的な発生を徹底的に封じ込めれば完全に元通りのコロナなど全くない社会にできたはずなのです。でもこの国も国民もそれができなかった。やらなかった。何故か。

 出口の全く見えない感染…。いつまでこのまま…。そうなるともうコロナなんて『ない』少なくとも「未知の恐ろしい感染症としてのコロナ」なんてもう『ない』と思ってしまいたい。そうして「済ませて」しまいたい…。そんな弱さが人々を包んでいるよう。…今まで強制されなくても「一定のガマンをして来たのにこの国は、何も報いてくれなかった…。」そんな思いも又、あるのでしょうか?「もうやってられません」?そんな心理が「五類化」へも大した反対をしない態度になって現れているのかも知れません。国民一人ひとりの命や身体を守るための金を少しでも使いたくないという政府の目論見にまんまと乗せられているわけです。でも現実は冷酷なものです。「もうないんだ。」「大したことないはずだ。」五類にすれば「普通の病気になるんだ。」そんなことを人が思ったり、言ったりすればウィルスが弱まったり、消えたりしてくれる訳ではありません。むしろ逆。感染力、免疫潜脱力はどんどん増しているばかり。もし、私たちがこのまま感染を抑止する行動をとらずに(勿論、国は何もしない。)感染が高止まりした状態のままこの病気が社会に「定着」(エンデミック)したら、常に救急を始め各種の医療が逼迫して、恐ろしくて「うかうか盲腸にもなれない」ようなそんな状況のなかで生きていくしかないのです。現状での「五類化」には絶対反対です。これは、正しく地獄への一里塚です。単純な話、コロナになった人が堂々とその日からスーパーに来たり、バスに乗ったりする訳です。医療現場の従事者にとってはかえって負担が増すだけ。一般の患者にとっては恐怖が増すだけ。五類になれば当然、医療費の自己負担も発生します。まして「屋内でもマスクを外せ。」などとは言語道断です。要するに、五類に移行すれば今よりも大幅に危険が増すわけですから、私たちは医療用マスク(N95など)を外出時には常用する予定です。(現在は本物のKF94を使用しています。)この病気に対し、ノーガードになればどうなるかイギリスの惨状を見ればわかることです。明治の開国以来、この国は常に「白人社会」をお手本にしてきました。でもそろそろ目が醒めたら?と。中国のコロナ政策は、近い将来必ず再反転するのでは、とその動向には特に注目しています。

 とにかく全く国民を守ろうという意向が国にない限り、私たち一人ひとりがしっかり「現実」を見据え(メッセージではなく)自らを守らねばなりません。そしてすこしでも感染抑制して行かねばなりません。人の意思によって。もしそれが出来ないのならこの病気が終息する時とは、極めて恐ろしい結末。即ち、極度の強毒化で感染が不可能となる(つまり、他人に移すヒマもなく死ぬ。)ことしかありえないのです。それでは、悲劇すぎます。愚かすぎます。今から100年前、アメリカ陸軍の基地で発生し全世界に拡大したかのスペイン風邪。我国でも全国民の100人余りに1人がこの「風邪」によって亡くなりました。今日、もしコロナで100万人程度死ねばこの国は、「GDPに影響が出るのは困るから」という理由でようやく重い腰を上げるのでしょう。その時を待っているわけにはいきません。

 今までもそしてこれからも私たちは、映画「I Am Legend」のウィル・スミスの心境で11日をスキを見せず緊張して生きていきます。それしかないのです。なので、midori-yaも命をかけてきた生業=本業も大きく転換せざるをえないと考えています。今後は、花のアトリエは無期限休業し(レストランも同様)、感染対策を万全にした上で屋外での花苗等の小売業を中心に営業して参ります。従来の如く、各フリーマーケットへの出店を継続するのに加え、本店ガーデニング売り場での植木苗・花苗の販売、更には各地への行商形式での小売りを展開する予定です。少しでも皆さんの近くへと思います。詳細は、目下企画中です。又、手軽に実現できる1㎡のガーデニング「1×ガーデニング」施工に今年より取り組んでいきます。こんな時代に花や植物の持つ生命感、みずみずしさ、愛らしさそして力強さを身近に感じて希望を失わず、明るい未来を実現して行きたいものです。新しいmidori-yaの挑戦にご期待ください。今年も是非とも、よろしくお願い申し上げます。

 開業以来の本業(生業)を奪われるのは、なんともやるせないことです。こんな状況下でもopenされる教室はもちろんあるとは思いますが、私共midori-yaとしては、「やるべきでないことはやらない。」を貫きます。私たち自身の為にもそして皆さんの為にも。

 “with コロナ”…それは、無能・無責任・無気力が煮詰まったメッセージなのです。

 最後に再び訴えます。現状でのコロナの「五類化」には断固反対します。
 「屋内でマスクをはずせ」などとは狂気の沙汰です。
「五類化」は仁坂元和歌山県知事の唱えるように
病原性が十分に解明され極度の強毒化の可能性は極めて低いことが医学的に立証され、②十分に有効な治療薬が一般国民に普及することの二点が充足された時にのみ検討されるべきであると考えます。現状では、未だ検討にも価しない状況であることは明らかです。

 

8.7 高島自衛隊フェスタに思う

 明日87日、ここ高島市で「自衛隊フェスタ」なる軍事式典が開催される。なんと、市が多額の費用負担を行って主催するのだ。この地に在る「饗庭野演習場」は、帝国陸軍時代からの伝統があり、地元には自衛隊関連産業も少なくない。隊員の家族も多い。一様に自衛隊に対しては、親和的な地元民が多い。行政も極めて自衛隊に対して協力的で18歳名簿をわざわざシール化までして自衛隊へ差し出したり、戦車隊の縮小が取り沙汰された折には市長が昔ならいわゆる師団長→参謀本部→陸軍副大臣まで次々と素晴らしいフットワークで訪問して「戦車さん出て行かないで」と陳情。高島は、ある意味沖縄以上に「基地の町」だ。そんな土地柄で、かの行事が挙行されるのはある意味極めて自然体なのかも知れない。

 地元のスーパーで夕方に食品を大量に買う制服姿の陸自隊員やコンビニで夏、アイスキャンデーを食べながら笑顔で花火を買っている若い自衛官たち。ピカピカに洗車されたオートマの軍用車。クーラー付き。私が「オートマって戦場でスタックしたらヤバイんとちがうか?これ。」って聞いたら、「いや。僕ら、動けんくなったら引っ張って出してもらうことしか考えてませんよ。」って明るく答えてくれた。血みどろの戦場とは、全く無縁な、だけどちょっとだけ硬派なカッコ系の若き公務員さんたちの姿を私も高島に移住してから見てきた。

 憲法9条。かつて、「戦後」という言葉がそのままあてはまった昭和の一時、当時の首相(確か池田勇人だったか?)が防衛大の卒業式で学生たちに「君たちは、これからいろいろな場で肩身の狭い思いをすることがあるかも知れない。けれど、それはこの国が平和だということの証なのだ。そのことを心に刻んで日々の仕事に取り組んで欲しい。」旨、挨拶した。

 今、どうだろう。この湖西の地で。肩身の狭い隊員はおそらく一人もいないだろう。明日には、晴れの舞台も待っている。この国の人々は、そしてこの高島の人たちは自衛隊とは軍隊である以上、一体どこの国と戦争をすると考えているのだろうか?いわゆる「領土」の防衛の方法はいろいろあると思う。自国の軍隊で守る・保安力のみで守る・同盟国または「本国」の軍隊に守ってもらう・・・9条のような宣言をして捨て身で行く・・・いろいろだ。9条で完璧に国の平和が守れるか?正直、私は「判らない。」

 ウクライナ戦争を契機に9条反対論が高まった。やはり国防のための軍備は必須だと。「きれいごと」のメッセージは、平和ボケたちのたわ言だと。そうかも知れない。でもかのヨーロッパロシア地域での近世稀に見る大戦争から1つはっきりしているのは、いくらウクライナのように国防の軍備を強力に備え、民兵組織まで整備し、国民に国防の士気も高くとも、戦争になってしまうような関係が他国との間に生じてしまえば必ず戦争になってしまうということだ。軍事力では、国は守れないということだ。国土が戦場となり、山河も荒れ、産業も人々の暮らしも破壊され、罪もない多くの人々が毎日何百人と死んで行く・・・。軍事的には、むしろ弱小な国の方から戦いをしかけて来ている例も世界には多い。どうやればこの東洋の島国の平和を守れるのか、一筋縄では行かないと思う。軍備だけでも9条だけでもなく・・・。

 当たり前だけど、一番大切で前提的なのはアジアの近隣の諸国との対話的な積極的な外交交流努力だろう。公私を問わず。そうして「戦争なんかありえない。」という当然のようなムードをアジアの中で作り上げていく地道な外交努力、又、民間での努力だろう。「月並みなことを言うなあ。」と思われるか?って・・・。月並みではないと思う。今のこの国では。むしろ逆のこと。つまりアジアの隣国との緊張を助長する言説やトゲトゲしいことをすることが愛国的な美徳なことのように感じられる危うさがある。こういうことを積み重ねると、ホンの小さな「事故」のようなトラブルが、もし良好なムードの国同志なら笑い事で済むようなささいな出来事が、戦争の直接の引き金になるものだ。歴史を見ればそれは一目瞭然だ。今、私たちはそんなことを本当によく考えて、ブルーとイエローの2色旗ばかり振っているのではなく、むしろアジアのお隣さん、その又お隣さん方たちとの「むつみ」を築かねばならないと思う。

 そう考えると、明日の軍事式典はいかがなものなのであろうか?「先制的自衛」の為の「敵地攻撃」と言う考え方が近頃、随分もてはやされている。特に政府の中心人物や国民民主党のお偉方たちの間で。日本人は、昔から先制攻撃好き、奇襲攻撃好きだ。桶狭間川中島鵯越も、又、当然かの真珠湾も、全て先制奇襲攻撃だ。むしろそれを「ひきょう」ではなく、「痛快至極」と考えている。でも今のこのご時世「先制」でミサイル?とかやっても一発で敵国全土が灰になるような人類破滅的な核攻撃でもない限りは必ず強烈な反撃が「敵国」とやらから来るだろう。そのミサイルたちが降り注ぐのは、まず日本の軍事拠点の中でも重要なここ高島だろう。あまり楽しい話ではない。

 先制は無限に先制を呼ぶ。無意味なアイデアだ。こんな基地の町に住む私たちこそ、どうやれば平和が保てるのか日々考えねばならないと思うのだが・・・。砲撃訓練の時は、高島じゅうに轟音が響く。まるで戦場のようだ。本当に不快至極だと思う。陸自の下請け仕事をしている、とある市中の土建業者の社員さんが「あの大砲、一発撃ったら大体65万円らしいで。」って話してくれた。「大きい音するけどなぁ、北朝鮮があるし、やらん訳にいかんしな。」ととあるお年寄りの一言。10発で650万、百発で6500万。23日分の大砲のタマ代ですぐ小学校1つ位建つ。軍隊って本当に金のかかるものだ。古今東西そうだ。「それでもいい。」と本当に国民が納得できる軍隊なのだろうか?

 自衛隊とは?もとは警察予備隊だったものを「防御力整備計画」なるもので世界でも指折りの強大な近代軍に仕立てたのは山下元利氏。地元マキノ町の英雄。「大先生」だ。この地で自衛隊に批判的なことを言えば、「共産党」と言われるだけだ。(私は共産党党員でも支持者でもないが・・・。)でも、もし自分の夫や息子や兄弟が自衛官だとして、その大切な人が戦場に赴いて、手がとれたり、足が切れたり、腸が出たりしているのはどう思うのだろうか?戦争とはキレイゴトではない。そういうことは、いわゆる「アウトオブ眼中」なのだろうか?でも本当に戦争になれば、必ずそういうことは起こる。必ず。心も壊れるかも知れない。「戦争になったら・・・」ではなく、決して戦争にならないような日本の立ち位置を万全の努力で保持して行くのが、日本のリーダーの使命であり役割だと思う。だから私は、ゼレンスキーなど全くカッコイイとも偉いとも思わない。「失敗をしでかした奴」ただそれだけだ。私たち国民一人一人も決して戦争などあるものか、あり得ないという決心で日々生活し、発言して行かねばならないと思う。「これからは、戦争なんかもあるかも知れんなぁ。」とかつぶやくのが、既に負けだ。不努力だ。クソだ。アホだと思う。そう思うから戦争はやってくるのだ。

 もう一つ、軍隊について是非考えないといけないと思うことがある。とある自衛隊の隊員募集ポスターのタイトルに「国家を守る公務員」とある。正しく言い得て妙だ。その通りだ。素晴らしいポスターだ。誠意に満ちたポスターだ。その通り、軍隊とは国家を守るものであって、国民を守るものでは決してない。ガソリンやタマと同じように国民=人間というリゾースを消費して戦い「国家」を守る組織だ。ならば、その国民としては本当に自分の大切な人が消費されるに価するだけの「国家」かどうかというのは、とても大切なことのはずだ。「こんな国の為に死にに行くなんて。」ではいけないはずだ。当然、そこではその国の政治を司っている指導者たちへの信頼・評価が不可欠になってくるだろう。「こんな奴らの為に死ねるか?」では・・・。

 でも、ここで考えねばならないことが1つある。軍隊とは、国家を守る為にある。その敵とは1つは外敵=「侵略国。敵国。」もう1つは、国民だということだ。ミャンマーを見ればそれは、よく判る。ミャンマー軍部の国民への暴虐ぶりは筆舌に尽くしがたい。軍部は自らが正当政府=国家であるという立場をいったん取った以上、反逆する国民は全て敵として攻撃しているのだ。全世界から重大な人権問題として非難の集中する中、今年も我が国の防衛大はミャンマー軍部の若手を入学させ、士官教育を行っているのだ。又、近頃、9月に予定しているかの人物の「国葬」とやらに、なんとミャンマー軍部の指導者をミャンマー代表として招待することを通知したのだ。その結果、軍部は反軍政治活動の指導者を4人一挙に死刑執行した。大胆な所業だ。世界の人権団体等からも非難が集中した。恐らく我国の「招待状」に自信を深めたのだろう。正当政府と日本から「お墨付き」をもらったと。およそ軍隊というものは、どんな時代のどんな国のどんな型の軍であろうと国民と共に在るものではないと強く感じる。ちなみにミャンマー軍部をかつて近代軍隊に仕立て上げたのは、他でもない我国だったのだ。彼等の先輩は、「帝国陸軍仕込み」の軍人だったのだ。

 軍部独裁の場合は、当然だが一応政府なるものが軍とは別に在ってもその政権に対して、その存立を脅かすような場合、軍隊は国民を敵と見做し攻撃する。これは、どこでも起こってきたことだ。(戦前の憲兵とか考えれば一目瞭然だが)今の日本人は、どうも自衛隊に対し、そういうイメージを持ちにくいらしい。これは、とても危ないことだ。よく「軍隊は、番犬のようなものだ。いてくれると安心だ。」というけど、私は今の自衛隊位の強度になると体長7m位の巨大なドーベルマン犬を飼っている感覚だ。いつ暴れ出すかと考えるだけで、恐ろしくて仕方ない。絶対必要だという確信が持てないのなら余り持たない方がいい。軍というのは、扱いに困る代物だ。シビリアンコントロールという原理がその首の綱らしいけど一発で嚙み切られそうな危うい綱だ。

 近くのコンビニの駐車場で夏の日にアイスキャンデーをニコニコして食べている人の良さそうな陸自のにいちゃんを見ていると、みんなピンとこないのだろうが、それと軍隊の本質というものとは別だ。どうもこの高島の人々は、そこを誤解している気がする。とても基本的で単純なことなのだが、いくら善人の集団でも集団で襲ってくるなら、それは強大な暴力装置だ。明日、ブルーインパルスのブルーは一体、どんなブルーなのだろう。爽やかな青?心から蒼白になるような青?とても複雑だ。私は観たくない。

 最後にとても大切なこと。今日は8/6。広島の原爆投下の日。人類史上初めて、この国は核攻撃を受けた。アメリカの「軍隊」によって。あの原爆投下に怒りを感じない日本人が少なからずいることに私は強い驚きと違和感をいつも感じている。高島の人たちもどうなのだろうか。心の中は、明日のブルーインパルスばかりか?自衛隊とは軍隊だ。USJでもディズニーでもない。キノコ雲でも空に描いてもらえばわかるだろうか。

 

安倍元首相の国葬に反対します。

 安倍元首相については、その評価は国民の間で大きく分かれていると思う。例えば「アベノミクス」については、「素晴らしい!」と賞賛する人がいる一方で「庶民の暮らしは何も楽にならなかった。」という声も強い。「森友・加計・サクラ」の疑惑事件の数々についても「政治の世界なんて所詮色々あるもの。下々がとやかく言っても仕方ないし。」という態度の人もいるが、「あんなの外国だったら内閣10回位、総辞職しているのと違うか?とっくに彼も牢の内のハズ。」という声も。私は、端的に言って後者。彼が「国を挙げて」弔いの儀式をするに価する男とは全く思えない。

 数々の疑惑が解明されていないまま、その責任を果たさず死んでしまったことについて「残念」と思うだけ。国の「予算」を組むのではないので閣議決定だけで国葬にすると言うのだが、内閣の「予備費」とてれっきとした「公費公財」、国民の為、国全体の為、社会の為に使うべきものだ。当たり前の話だ。

 この未曾有のコロナの大拡大の時勢に喫緊の課題は、感染対策ではないのか?そういうことの為に緊急に使う為に国会決議の必要のない予備費が行政府たる内閣に在るのではないのか?それを何のコロナ対策も打ち出さず、とっとと「国葬」を閣議決定。怒りで一杯だ。余りに国民をバカにしている。今回の件で彼(安倍元首相)の「ご努力」によって、政界の宗教汚染がこれ程までに進行していることも明らかになった。「公明党創価学会の党」なら「自民党統一教会の党」か?自称野党も同様だ。

国葬」断固阻止を叫びたい。そもそも「国葬」というもの自体が民主主義の精神に反するものだいう見解もある。もし、彼の「国葬」とやらが強行されれば、それは「まともな国がアジアの中で一つあえなく消滅すること」を示す。「国」そのものの葬式なのだろう。

p.s.それと今回の銃撃っていうのは、いわゆる「怨恨ごと」であって断じてテロリズムではないと思う。いわゆる自称リベラル派メディアまで「テロ断固反対」とか良い子ぶっているが、とてもアホらしい。テロリズムというものについての私見は、又追って話したいと思います。 

五輪強行こそ反日

「五輪に反対するのは反日」?

馬鹿げたセリフにだまされてはいけない!

NYタイムズの言う通り五輪強行の目的は3つ。

「1に金2に金そして3に金」だ。

国民なんかどうなってもいい。

政府にとってはやりさえすればそれで利権集団から文句を言われないから、即ち「安全安

心」なのだろう。自分たちが。

真にこの国を愛しこの国の人々を大切に思うなら、五輪中止を唱えるのが本来。

おのれの利権の為なら国を乱し民を虐げ世が乱れても構わないと五輪を強行せんとする

「安倍一味」=「現政権」これが真の「反日」だ。

「日本」に背くんじゃない。『現政権』に反論を唱えるなら誰でも「反日」。

福島の未だ残る問題を指摘しても「反日」。

五輪に疑念を示す天皇までも「反日」なのだそうだ。連中によれば・・・。

もうこんな政権はこりごりだ。

直ちに五輪中止を!そして政治の総入れ替えが必須だ。この国は。