巨大プラントオープンに思う

 

 

 

midori-yaのすぐ近くの安曇川町内に巨大スーパーセンタープラント高島店がオープンしました。高島の皆さんには大人気のようで連日にぎわっています。

特に驚いたのは高島市広報3月号において「にぎわいと商工業の活力に向けて」と題して福井市長のプラント絶賛評が出ていたことです。

駐車スペースに大屋根があり快適に買い物ができる。

市内外からも多くの人が集い地域の活性化につながる。

とよくぞプラント本社は滋賀県初出店を高島に選んでくださったとうやうやしく感謝されている印象を受けました。

 

エコの時代とか手作りの大切さとか一方で言われていますが、プラントはまさしく大量生産・大量流通・大量消費の象徴のような商業施設です。世の中はやっぱり今でもこういうものを目指しているんだなと改めて痛感させられました。
豊富な品揃え・一ヶ所で生活に必要なものすべてが揃ってしまうという一極集中の配給所のような体裁。
そして何よりこのプラントの核弾頭とも思えるのは豊富なバリエーションのお惣菜コーナーです。適価で美味しそうで品数豊富・・・
高島の主婦たちは皆、こぞって料理する意欲を失くしてしまうのではと心配に思えてなりません。
いわゆる共稼ぎ所帯や仕事を持っている女性にとっては逆に福音とも言えるプラントなのかもしれませんが・・・

 

私自身としては毎日の食事はすべて手作りすべきものだと思っていますし、それを実践しています。
それは経済性だけでなく食の安全を確認し、自らの家族が食するものを自らで用意するという基本的な動作は人間にとって不可欠だと思うからです。

しかし今日、事実これが困難なご家庭はとても多いと思うのです。近頃男女の役割分化を強調し、男は仕事女は家事というスタイルの復古を推奨し、そうすれば世の中が健やかに、エコになるのではないかといった精神論者的な主張が見受けられます。しかしながらよく考えてみると昭和世代とは経済成長を旨として大量生産・大量消費・大量廃棄を標榜し、大きな負の遺産を今に残しているわけですが、その昭和世代のご家庭とは典型的な男女分業型専業主婦ファミリーなのです。
男女の役割感を強調し、性的属性による分化を基調とした価値変革を再来させてもそれが社会の健やかさやエコ化を生むとは到底思えません。
専業主婦が暇に明かし毎日プラントへ日参し、大量購買・大量消費・大量廃棄している様を考えればすぐわかることです。

 

必要なのは伝統文化とか大和精神の回帰ということなどではなく、丁寧に日々を暮らし無駄な消費を行わないという倹約と堅実の精神なのです。これは世界中どこの国の人でも持っている人は持っているものなのです。
イギリス人の多くが伝統的に持っているものですし、キューバの人たちも「一枚のシャツを毎日きれいに洗って着る」という言葉で象徴されるように実践している精神です。民族性とは無縁なのです。

 

そもそも今の社会で多くの勤労世帯が苦しい生活を強いられる結果として堅実・倹約を実行できず、スーパーのお惣菜を毎日買って帰り夕食の糧とせねばならないのは、一重に労働環境の過酷化・雇用の不安定化、そしてそれを阻止・改善するための連帯や団結ができない風土がこの社会に蔓延しているからなのです。
個人貯蓄がなくなり、企業内留保がこの十年間で増えたと言われています。まさにここが問題なのです。
「戦後最大の好景気」「人手不足」なのになぜ個々の労働者の地位は向上しないのかおかしいではないですか。問題はここなのです。

文明の西洋化や知性的傾向が問題なのではないのです。

 

懐古主義や「やまとごころ」の推奨を行ったところで何も暮らしは楽になりません。

幸せなど訪れません。むしろそれは今の社会のあり方・経済のあり方を肯定し、それをさらに進めようという人たちがスローガンとして掲げていることなのです。
その後押しをすることにしかならないのです。

 

必要なのは個々の人間を金もうけのネタにしようという現代の商業主義からしっかりと我が身をそして我が家族をプロテクトしようという意味での防衛戦としてのエコ精神なのです。
日本だけでなくどの世界でも家庭内分業して古来から生活してきたわけです。
男は力仕事、女は細かい手仕事。

これこそは共稼ぎの原点なのです。ここを誤解してはなりません。

共稼ぎが悪いのではないのです。パートとはそれが現代型に変貌しただけなのです。

大事なのは共稼ぎであろうが専業主婦家庭であろうが、各人がきちんとした理性的判断と知性を持って生活し、無駄なものそして有害なものを買わないというだけのことなのです。
そうして少しでも安価な労働力を提供してしまうこともないように心がけるだけのことなのです。

 

一人一人の毎日のほんのちょっとしたあきらめと割り切りが刹那的な安楽と利便性を求めてしまい、夕方にお惣菜を買いそれが集まってあの巨大プラントを支えていってしまうのでしょうから。

愛国心シリーズ第2回「甲子園と愛国心」

 

前回「あゆと愛国心」で自然や風土への「愛」がいわゆる「愛国心」の基礎になっているのではないかといったお話をしました。

今回は「甲子園と愛国心」ということで人間社会に踏み込んでみたお話になります。

 

「春はセンバツから」というメッセージがあるように春の選抜高校野球の出場校が発表される時期になりました。

センバツ」は春の歳時記のようでもありますが、やはり甲子園というと「夏の全国大会」がメインと言えるでしょう。

今更この場で私がどうこう言うまでもなく夏の甲子園高校野球の熱狂ぶり、人気ぶりは皆さんもよくご存じの通りだと思います。

この高校野球、言ってみれば高校生の野球の全国大会に過ぎないのですが他のスポーツとは違い熱狂的に郷土が団結して出場校の応援に駆け付けるといったことやその様子が大々的に全国的に各メディアで報じられて日本中が熱狂するといったことで随分他のスポーツの大会とは一線を画した特殊なものになっていると思います。

 

かつては地方から観光バスを数十台も連ねて兵庫へ向かうので大変な交通渋滞を起こして社会問題になったとか、応援に行った村には猫や犬しか残っていないので甲子園の留守村を専門に荒らす窃盗集団が全国に横行したとか、そんなことがあったほど甲子園への熱狂的な応援ぶりはすごいものだったのです。

今では少々熱も冷めてきたかもしれませんが、やはり似たような状況が程度の差こそあれ続いているのではないかと思います。

 

私も田舎移住を繰り返しているのでわかるのですが、いわゆる田舎の集落、村、部落というのは血縁・地縁を中心として強いつながりがあってまとまりを持っており、団結や一体感と言うのは相当なもので時には排他的なものもあると思います。

 

しかしこの甲子園というのは単に村ではなくてその地方や都道府県の一代表ということでいわゆる村単位というものを超越したもう少し大きなまとまりを象徴しているもののように思えてなりません。

言ってみたらそういう集落というものとは別のカテゴリーでの一つのまとまり。また、その集団への帰属感とか依存とか回帰とかいった感情がそこにあるからこそこれ程までに熱狂的な応援や甲子園ブームというものが日本で続いてきたのではないかと思います。また一方で甲子園にはそういった地域でのまとまりや一体感を作り出す魔力があるのかもしれません。

一体それはどういった感情でそこにある熱狂の正体とは何なのでしょうか?

 

愛国心」そのものではないかもしれませんが、この言ってみれば「郷土愛」というものが「愛国心」の基礎になっているのではということはよく言われることですし、「郷土愛」から「愛国心」への連続線というのはなかなか切りがたいものだという主張もあります。

 

先程言いましたようにいわゆる村社会が団結するのはよくわかりますが、高校野球に関して言うと都道府県単位で何となく自分の県の代表校を応援したくなるという心情は日本人が多かれ少なかれ持っている感情のようなのです。

 

私は京都人ですが、京都と言えば皆さんもご存知のように高校野球の伝統校、平安高校があります。今まで通算100勝の強豪で、かつて初めてバント戦法を行い相手チームを「あっ」と言わせたという逸話が残っています。さすがに伝統を大切にしながらもアバンギャルドなものを好む京都ならではの戦法だと思いますが、バントをくらわされた相手校は「卑怯千万」とうめいたそうです。

 

新聞にこういった試合そのものに関する記事やOBのお話、平安でしたら衣笠選手のインタビューなどが載っているのはわかるのですが、全く野球とは関係ないような選手の家族の話とか、応援団の苦労話とか言ってみれば故郷のお祭りに関する色々な記事のようなものが、高校野球については各新聞紙上やメディアで夏になるとあふれかえるのです。これはスポーツ報道というものではありません。

 

いわゆる地方の村社会ではありませんが、京都では平安高校が試合に出るごとに町中の色々なところのお店やお宅に行っても「平安出てるし、テレビ見とかなあかんで。」などと言ってテレビにかじりついていたり、夏タクシーに乗ると冷ややかなクーラーの効いた空気と同時に高校野球の中継がいつも流れていたりしたのが昔の私の思い出です。

 

これほどまでの特別な国民的な熱狂というのは一体どこから出てくるものなのでしょうか?

日本人はそれほどまでにあの「野球」というスポーツが好きなのでしょうか?

単に野球というものが好きなのならば技術的に高いプロ野球や大リーグを見ていればすむことなのです。むしろ技術的にレベルが稚拙な高校生の大会になぜこれほどまでに熱狂するのか?

世界ではこういった現象は一切ありません。

日本特有のものなのです。

こういうことが日本のスポーツの後進性を示しているのであって高校野球がある限り日本はスポーツ先進国にはなれないという主張がありますが、高校野球というのはスポーツそのものではない、少なくともスポーツだけのものではないと私は思っているのです。

 

かつてNHKのドラマで夏の甲子園を題材にしたものがありました。

故郷を離れて東京で会社勤めをしているとある青年が、都会の希薄な人間関係やぎすぎすした雰囲気に閉口して自分を失いかけていた時、故郷の母校が甲子園に出場することになりました。

 

彼は会社をしばらく休職して故郷に戻り母校の応援団を結成するための資金集めに奔走します。彼はその中でそれまでばらばらだった色々な昔の仲間たちや地元の人たちと交流し、人間の暖かみや信頼感を取り戻し、そして自信を深めて人生に再出発していくといった確かそんなストーリーだったように思います。

海外からも募金が寄せられたり、「お金は出せないけど野菜をいっぱいあげようか。」とか「応援団の旗をうちで作ってあげようか。」とか色々な人たちの協力ぶりがそこに描かれていました。

 

心暖まる郷土愛の人間ドラマのようでありますが、少しだけ変わった一節がそこにありました。

彼がその故郷出身の国際的な芸術家の事務所に出向いた時のことです。

その芸術家役の役者さんは誰だか忘れましたが、今で言うとちょっと小田切ジョー風の人だったと思います。その主人公が「母校の為に少しでも募金を賜れませんか。」と彼のアトリエを訪ねたところ、その芸術家は「そうですか。それは素晴らしいことですね。でも私が思うのは野球に打ち込んでやるのは結構なことですが、それは自分が野球をやりたいからやっているだけのことでしょう。それは大いに素晴らしいことだけどその為に他人が金を出さなければならないという理由はどこにあるのですか?」とまず、こうきたのです。

 

「故郷の代表ですから。何とかお願いします。ふるさとの代表チームですから。」と彼が言うと、その芸術家はすかさずこう切り返しました。

「それはわかるんだけれども。どうして、私が○○村の出身だからと言って、その村の代表チームにお金を出さなければいけないのか、どこに合理的な理由があるのか私はよくわからない。そこまでの一体感とか言ったものを私は持っていませんよ。もちろん故郷のことを悪くは思わないし、懐かしいとは思うけども。それで野球のチームにお金を出さないといけない必然性はどこにあるのですか?個人の自立というものを前提にして野球をやりたい人は野球をやる、他のスポーツをやりたい人は他のスポーツをやる、それでいいじゃないですか。どうして野球にだけお金を出すのですか?」ときたのです。

 

「甲子園に行かねばならないからです。お願いします。」主人公が言うと、

「そういう発想でいつまでもやっているから日本人と言うのは個人の自立ができないのですよ。各自が自分のやりたいことを思いっきりやるのはいいけれどもそれに周りが振り回されるとか、一体感とか、そういったことを押し付けてくるのはおかしいんじゃないかな。国際化の時代にもっと広い視野を持って、自主性とか個人のアイデンティティーとかそういったものを基本にして考えて・・・」と彼が言葉を続けようとしましたが主人公は、

「わかりました。どうもお邪魔して申し訳ありませんでした。失礼します。」と失望してその場を去って行ったのです。

その芸術家はそれでも尚、その持論を続けて一人でしゃべっている様子が滑稽に描かれていました。

 

間違いなくここでその芸術家は身勝手であまりに個人主義的で故郷のことを愛さない、郷土愛のない人間のように描かれていたのです。それに耐えながらも無礼なことをせず、帰ってきた彼が何と忍耐強く誠実な男であったかということがドラマの言いたかった点のようなのです。

 

ここに甲子園のスピリットが凝縮されているように私はそのドラマを見て感じました。

 

ふるさと、故郷、郷土。ほっとする言葉ですし、だれでも「藪入りするんや。」とか「田舎へ帰ってくる。」とか言って、夏になると故郷へ帰って都会の垢を落としてのんびりするというのはよくあることです。それは決して悪いことではないと思います。

少年時代に戻って川で遊んでみるとか、旧友と忌憚なくビールを飲んで何日か過ごすとか、とても素晴らしいことなのでしょう。そういう感情に私は何も異論はありません。

 

しかしその故郷とかふるさととかそういったものへの帰属感の強さ、そこに属しているその一員であるという意識の深さは人により様々であろうと思います。ずっと地元で役場に勤めている人、近郊まで通勤している人、はるか離れた大阪や東京に出て所帯を持ち仕事をしている人、他の県へ嫁いだ人、また海外で事業をしている人、色々な条件によって様々であろうと思います。

「それはわかる。それでもみんな〇〇の出身なんやから一つなんや。みんな同じなんや。」と言ってくくろうとする考え方はあります。そしてそういったまとまりと言うものを基にして一定の行為や負担を個人に要求する考え方もあります。

 

先ほどの甲子園への応援など、まさにその一つなのです。

単に故郷へ戻って旧友と楽しい時間を過ごすなら何も問題はないのですが、こういった故郷への貢献を要求するということになってくると少々話は複雑です。

またそういったことを基に一定の寄与・貢献といったものをしない人を「郷土愛のない人」と言うようになると尚更話は複雑です。

これは間違いなく前回述べた美しい自然そのものに対する純粋な愛、それを伝えていこうという決意などとはまた異質のものです。郷土の山河を思い、山河そのものを愛する気持ちといったものとは別のものなのです。この辺りは誤解してはなりません。

 

帰属対象としての集団が本来的にはあまり実質的な存在やカテゴリーとしての独自性を有していなくともその単位としての集団が帰属者に対して一定の要求(貢献・寄与・忠誠)を行い、その結果その構成員の中で要求に応じたものと応じないものがあると仮定してください。

この場合、その要求に応えることが一定以上の負担や苦痛を伴う場合、要求に応じた構成者の間には消極的価値の共有が生まれそれによって連帯感が生まれると同時に帰属対象としての本来、原初的内実のない存在に積極的実質的価値が充当されてしまうものなのです。

それと同時に非応答者に対する非難と攻撃性が生じるものなのです。

 

わかりやすい例をあげてみましょう。

ある村で新年の祭事に備え年末に氏神の境内掃除をすることになったとしましょう。

大して汚れてもいないし、別にやらなくてもいいのではと皆感じていました。

婦人会の全員が「やりたくないな。」と心の中では。

でも「年末やし。氏神さんの掃除せなあかんのう。」と言う村の長老の何気ない一言に誰も異を唱えることはできず、寒風吹きすさぶ中10人のメンバーのうち8人が出て掃除を行いました。

案の定、寒さがとてもこたえ数人が体調を崩しました。

「大変だったわねー。でもやっぱり氏神さん掃除できてすっきりしたし。」

「これだけきちんと掃除してる村はそうないで。うちはやっぱり大したもんや。」

「そうや。うちは律儀な村やもん。よそとちごうて。」

みんなでおつかれ会をして、苦労話で盛り上がったのです。

「ところでAさん、来なかったわね。」「あっこは姑さん具合わるうて診療所連れてかなあかんって言ってたし。」

「でもそんなん言うたらうちかって、息子インフルで寝てたのに私出たんよ。」

「まぁ、Aさんはわかるとして去年都会から引っ越してきたBさん、お花のレッスンがあるとか言うて休まはったわね。」

 

これからどんな恐ろしいことが起こるのでしょうか・・・

(そもそも「今年はゴミ一つないしやめといてもいいですか。」とかの長老に一言言えば案外やらなくてよかったかもしれないのですが・・・)

 

帰属集団に対して構成員が自発的に自由に何かを行うなら何も問題はないのです。

しかし、集団の方から一定の行為を義務化して要求すると必ずこのような事態が生じるのです。

 

私自身、果たして「愛郷心」とか「郷土愛」とか「ふるさとへの愛」と言ったものがあるのでしょうか。

私は京都生まれの京都育ちです。

今、隣県の西近江の高島というところに住んでいます。

仕事で京都に出向くたび、大原を過ぎて京都の街並みに入りまた鴨川の様子などを見ていると「ああやっぱり京都だな。」とほっとすることはありますし、何かにつけ端正に・丁寧に行うところ、また野球に限らず伝統を大事にしながらも新進気鋭の気風を持っているところ、いわゆるつくられた自然の美しさ、それをきちっと保ってきた気概、何かにつけホンモノを見極める目など、やっぱり京都は素晴らしいなと思うことがあります。

 

しかしながら反面、行儀がましいことを小うるさく言ってみたり、プライドが高そうに見えて金儲けの為なら卑屈なまでにいろいろなことをするような割り切ったところ、「お金に関心などないのですよ。」というふりをしながら裏では大阪人以上にシビアにがめついところ、また俗に言われているような京都人独特の本心を見せない陰険さなど、言ってみれば嫌いなところはいくつもあります。

私自身、物事を客観的に見る方で故郷である京都についてもとてもいいなと思う点と嫌だなと思う点をはっきりと見極めています。

「京都だからまるごと好き」という心情は持てないタイプなのです。

ですから京都の町中に住むのではなく、ちょっと京都から離れたところに住みながら京都のいいところだけをつまみ食いするようなライフスタイルをとっています。京都の郊外の一番端っこにいるつもりです。私は今それがとても気に入っています。

 

でもいわゆる「郷土愛」というものを旨とする人たちからすれば「それは郷土愛ではないよ。まるごと愛してこそ郷土への愛だ。愛郷心だ。あなたは愛郷心のない人だ。」と言われるのかもしれません。確かにそうなのかもしれません。

 

物を愛する・人を愛するというのはそういったことかもしれないのです。

何もかもひっくるめて丸ごと愛する、受け入れるということ、自分のものにするということ。それが愛郷心なのかもしれません。

ちょっと私はそういったものには抵抗があります。

皆さんはいかがですか?

もしこういった「愛郷心」「郷土愛」といったものの延長上に「愛国心」があるとすればやはりまるごと受け入れるべきだという論法になるのでしょうか?

その道のりというのは非常に複雑ですし、よくわからないものです。

またこれから色々な角度からそういったことも考えていきたいなと思います。

 

今回は「甲子園と愛国心」、郷土愛というものについて少し考えてみました。

 

P.S.

最近私はとても不気味なことに気が付きました。

あの甲子園の主題歌の「ああ、栄冠は君に輝く」というのがありますね。

「雲は湧き、光あふれて天高く、純白の球今日ぞ飛ぶ・・・」というあの曲です。皆さんよくご存じでしょう。

もう一つ、とても有名な軍歌で「ラバウル海軍航空隊」というのがあります。

「銀翼連ねて南の前線、揺るがん守りの海鷲たちが・・・」というものです。

最近ネットで簡単に音楽が聴けるらしいですから一度是非2曲聴き比べてみてください。

メロディが全くそっくりなのです。

とても不気味な感じがしました。

愛国心シリーズ第1回「あゆと愛国心」

 

愛国心とは何だろう?」シリーズ第1回は「あゆと愛国心」です。

「あゆと愛国心」と言っても浜崎あゆみも、もしローラと同じように「辺野古の海を守れ。」と言ったなら「反日だ。」とかそういう話ではありません。

川魚の鮎のことです。

 

魚偏に占うと書く「鮎」という魚は、海や琵琶湖から春に遡上して上流で大きくなり、そしてまた秋になると川を下って次代に生をつなぎ死んでいくことから一年限りの魚ということで「年魚」と呼ばれたり、また天然鮎の素晴らしい香りは川魚特有の生臭さは全くなく、まるで西瓜や瓜のようなので「香魚」と呼ばれたりもしています。

 

その生態は他の川魚とは異なり成魚になると川の底の石についている藻類だけを食べ、そのなわばりを守るために侵入してきた他の鮎を排撃して追い出すことから、それを利用した「鮎の友釣り」が日本では昔から行われてきました。

 

実は私自身この「鮎の友釣り」をもう何十年も行っています。

この漁法は大変特殊で餌をつけて鮎を釣るのではなく、鮎のなわばり意識を利用しオトリ鮎を仕掛けの先にハナカンでとりつけ、野鮎のなわばりへ侵入させます。そして侵入してきた敵であるオトリ鮎に向かって体当たりしてきた野鮎が掛け針にかかって釣獲されるという漁法です。

「オトリがけ」とも言われているこの「友釣り」という漁法は世界中探してもどこにもない釣りで非常に繊細で川を見る目や技術を要するものです。まさしく日本の伝統漁法の一つです。それが日本特有の美しい風土や長く受け継がれてきた伝統・技術を土台にして成り立っているのは間違いのないことです。

 

またこの鮎というのは大変郷土色とも関係が強く、各地で「やはりうちの川の鮎が一番。」という意識が強く「坂東太郎の鮎が一番。」とか「白神の黄金鮎は日本一。」と自慢したり・・・

私は京都出身ですが、京都人は皆、例外なく「日本一北桑(北桑田郡)の献上鮎。やはり周山(上桂川)の鮎が一番。」などと言い、それを自慢してきました。「周山の鮎は焼いても口を開けたりしいひん。」品位のある一級品と自画自賛してきたようです。(ちょっと笑えますが。)

いわゆる祇園貴船などで夏に川床などで出される高級料理の主役としての地位を保ってきたわけです。

 

私自身根っから鮎が好きで鮎の友釣りが好きなのです。趣味でなく私の夏場の副業です。

このとても技術を要するけれども奥深く、日本独自のこの漁法を心から私は愛しています。そしてあの美しい魚体、食べれば何とも言えないあの独特の「sweet fish」という英訳でわかるような甘みのある風味、キモの苦さ、夏の暑さを吹き飛ばしてくれるようなあの独特の食味などとても言葉では例えられないようなものです。

養殖鮎とは全く一線を画し、別の魚です。(養殖鮎は焼けばイワシのにおいがします。)

鮎と私がここで言っているのはすべて「天然鮎」のことなのです。

 

このように日本独特の古来からの漁法というものを愛し、そしてそれが成立するような日本の風土というものを愛しているというと「あなたはとても愛国心の強い人なのね。」と人から言われることもあります。

事実、私はこのような釣りが成立するような日本の川・自然というものを心から愛していますし、それが次代までも受け継がれるように我々が守っていかなければならないと思っています。

この思いはとても強いものです。

 

でもこれがすなわち「愛国心」というものなのか、どうなのか私はよくわかりません。

 

この鮎という魚は実は天皇家ととても縁の深い魚なのです。

かの昔、いわゆる神話の時代に皇室の御先祖である神功皇后新羅遠征の前の熊襲征伐を行った時に果たして進軍が上手く行くかどうかを占うために竿に糸をつけ川に放ち「この鮎が釣れれば上手く行くだろう。」ということを占ったと言われているのです。首尾よく鮎が釣れ上手く行くだろうということで軍を進め、征伐は上手く行ったという逸話からこの魚は魚偏に占うと書いて、国運を占う「鮎」という名前になったのです。明治天皇もとてもこの魚を愛してよく食したと言われ、そういったことからもこの「鮎」という魚は日本の魚として国民の間に広く定着し、夏の和食の中心としての地位を占めてきたと言えます。

 

しかし先ほど述べましたように果たしてこういった日本の自然そのものを心から愛し、それを好む心というのがそのまま「愛国心」なのかどうなのかこれはよくわからないことです。

いわゆる「愛国心」というものがあるのならばこういった日本の自然といったものを愛する心がその根底とか基礎になっているんじゃかないかという一応の憶測は成り立ちますが、果たしてこの自然といったものへの「愛」そのものが「愛国心」と言えるのかどうかはちょっとわからないところです。

 

日本の山が好きでひたすら登山好きな人は皆、「愛国者」なのか。

私のように友釣りの釣り人は皆、「愛国者」なのか。

棚田の田園風景を好んで撮っているカメラマンは皆、「愛国者」なのか。

よくわからないところです。

 

「国破れて山河在り」というのはかの有名な中国の詩人、杜甫の言葉です。

国家というものが戦で崩壊してもきちっと自然さえ残っていればまたやり直せるものだということを示した言葉だと思います。

 

美しい自然、健やかな自然といったものが国を営む上で大事な基盤であることは疑いようもないと思います。それは国民そのものを支える一番大事な部分だと私自身思うのです。

美しい空気、美しい水、そして美しい大地。

こういったものを大事にしかけがえのないものとして愛していく心、汚してはならないと誓って実行していく心、こういったものがとても大事で言ってみれば「愛国心」なるものの「基礎」であるような気はします。そう考えると「水道法」によって貴重な水資源が海外の資本・企業によって左右される可能性を招来するというのはいかがなものかと思えてなりません。

 

いわゆる高度経済成長以来、我々はこの国の自然というものを次々と消費の対象としたり、また汚したりしながら経済成長を続けてきました。

一時期程、甚大な公害の汚染はなくなったと言われていますが今でもすべての問題が解決したわけではありませんし、むしろ身近なところを見ていますと琵琶湖の水質などは年々悪くなっていく一方のような気がします。「滋賀県は環境県だから」とか「環境派知事が守ってきたから」とか言っていかにも琵琶湖の水質が保全されているような幻想を抱いている他府県の方がおられますが、現状は全くそうではありません。特に琵琶湖大橋より南の南湖の辺りを訪れてみてください。暑い時期になれば湖岸に立つのもためらわれるような悪臭。外来性の水草で全く出入りできなくなった漁港。突然全滅した烏丸半島(琵琶湖博物館)のハス群落。そしてまるでマンホールの中をのぞいているような湖水の様子。とても健やかな琵琶湖とは思えません。

日本中どこでもすべてとは言いませんが、環境問題がきちんと解決し健やかな国土になっているとは言えないのが現状です。

 

これによって鮎自体も数が減ったり、昔のような質のいい鮎でなくなったり、小型化したり、また時には絶滅したりしているところも多いのです。

 

環境全般について論じるのは時間がありませんが、私の住んでいる滋賀県では近年、琵琶湖の天然鮎の産卵量は例年の平均の1/50しかないということが県の水産課によっても認められています。1/50です。ほとんど絶滅寸前といったものです。

その一因はどうも琵琶湖の環境の変化にあるようです。

孵化した稚魚がしばらく育つため必要なプランクトンが外来性プランクトンの繁殖によって激減し、いくらたくさん卵を親鮎が産んでも生まれた稚鮎が育たないで死んでいくというのです。

県の水産課に聞いたところ、人工河川などを作って養殖鮎を放流したりして産卵を増やして対策しているから何とかなるだろうと言うのですが、いくら援軍を送ったところで食べるものがなくて皆、死んでしまうのならば何の効果もないと思われます。

状況は大変悲観的です。

 

また海から遡上してくる海産鮎をとってみても私が近年主漁場としてとても質のいい鮎がいるというので大事にしてきた嶺南地方(福井県南部)の若狭湾にそそぐ南川ではここ23年海からの遡上が激減し、天然鮎が絶滅に近い状態となっています。大河、九頭竜でも同様です。

日本全国すべての鮎がもちろん絶滅したわけではありませんし、放流等々の方法によって少しでも保全していくことは可能だと思います。しかしながら各地で昔に比べたらとれなくなったとか、数が少なくなったとかいうことはいろいろな河川の釣り人から私も伝え聞いています。

神宮皇后の故事からすると、鮎がこれほどまでに姿を消しているというのはまさに「日本も国運尽きたり」ということを鮎が警告しているのかもしれません。

日本の国土を大事にしないで放射能の危険を承知で次々原発を再稼働して目先の利益を得ようとか、、ひたすらダムばかり造ってその場の土建事業で儲ければいいとか、乱開発で山肌を削ってでもメガソーラーをつくればいいとかそういった発想というものはそもそも「愛国心」に反するのではないかと思えてならないのです。

 

かつて川で出合う大先輩である老釣り師たちは「あんたらこれから何十年も鮎釣りできてええなぁ。わしはもうあと何年もないけど。」とよくおっしゃっていました。

彼らは恐らくこれから先、自分が死んでも日本の鮎は毎年川にやってくる、そしてこの友釣りは引き継がれていくということを確信しながら引退していかれたのだと思います。

その意味ではとても幸せなエンディングだったのでしょう。

目の前で鮎がいなくなったということを体験しなければならない私の世代、これはとてもショッキングなことです。

これまで営々と引き継がれてきたこの日本の美しい山河。そしてそこに育まれてきた美しい魚たち。こういったものを子孫の世代までも伝えていく責任が我々にはあるでしょうし、こういったものへの「愛」というもは決して欠いてはならないものだと思います。

 

原発運動を行う市民団体に対して「反日だね。」「のんきなお花畑野郎どもで愛国心の欠片もないね。」などといったネット上の書き込みがよくあるようですが、彼らの言う「愛国心」とは一体何なのでしょうか。

1回目のお話は「あゆと愛国心」でした。

愛国心って何?(序章)

 

毎回いろいろな話題について皆さんと一緒に考えてみようというこの社会派ブログですが、これからしばらくは「愛国心」というものについて一緒に考えてみればと思っています。

 

愛国心」というのは日常的にあまり頻繁に使う言葉ではありませんが、折にふれ耳にする言葉です。近頃では学校の教科の中で道徳を教科化し評価するとか、その中で「愛国心を教えるとか、高校生の倫社政経の教科をなくして代わりに道徳の教科を設け、そこで「愛国心」教育を推進すべきだとかいろいろな教育界での議論がなされています。

 

「あの人は愛国心が強い。」とか、「この人は愛国心がない、良くない人だ。」とか、また「愛国心は強制するものではない。」とか、「いや。愛国心を持つように要求した方がいい。」とか、いろいろな議論がなされています。

果たして「愛国心」を要求した方がいいのかどうか、また「愛国心」教育をした方がいいのかといった議論はとても難しいことですが、私が強く感じるのはそういったことを議論する前にまず「愛国心」というものが一体何なのか、よくつかめていない人が多いのではないかということです。その上でなぜか「愛国心」という言葉だけが一人歩きしたり、その正体がよくわからないのにそれが「いい」とか「悪い」とか論じていることがよくあるのではないかと思います。

 

私自身も思想研究の専門家ではありませんし、よくわからないことばかりです。

これから何回かに分けて私たちの回りで「愛国心」という言葉が問題になったり、また関連していると思われる事柄についていろいろな切り口から「愛国心」とは一体何なのかということを皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

決して結論が出る問題ではないという気もしますが、まず「愛国心」というものが何かということを考えてみないとそれを要求すべきかどうかといったことも全く議論が成り立たないわけです。

難しい問題ですが、あまり堅苦しくならないように身近な話題や誰でもわかるような話題について私も素人ですから素人的な言葉で共に考えてみたいと思います。

またしばらくおつきあい下さい。

 

ストの出来る社会に

 

 

かつて私が大学生の頃ぐらいまではよく「スト」「ストライキ」というものを町で見かけましたが、最近全く見かけなくなりました。

 

中学校の「公民」の教科書を開けてみると「労働者の権利」というところで「資本主義経済では労働力も一つの商品として売買されている。」と、「労働者は雇い主である使用者に労働力を提供し、その見返りとして賃金を受け取ることになっているけれども労働者は使用者に対して弱い立場にあるので一人一人がばらばらに交渉したのでは不利な条件になりがちである。そのため労働者は労働組合を結成し、労働条件の改善を使用者に要求するようになった。」と。

「国も労働組合を結成したり、また労働争議を行ったりすることを権利として認め法律で保障している。」

日本では労働三法と呼ばれている労働基準法労働組合法・労働関係調整法が存在する。

という風に解説されています。

 

でも最近はブラックとか1か月休みなしとか一日16時間働かされたとか何時間働いても全く残業代はもらえないとかそういったとんでもないことが横行しているわけで労働組合を作って団結してストをするなどまるで雲の上の話のような感じを持っている労働者も多いのではないかと思います。

 

労働組合を結成することは国民の権利であり、労働組合を結成しないことを要求したり労働組合に入らないことを条件としていろいろな恩典を与えたりすることは、不当労働行為として違法なことです。

これは現行の労働法によって規定されていることなのです。

しかしながら私の周りを見てみると、労働組合労働組合らしい活動をしているような企業というのは最近全く見かけません。

特に私の住んでいる辺りではその通りなのです。

 

かつて私もサラリーマンだったころ、自分の勤めていた英会話学校で人事規定の改悪が提示され、私はとてもそれを不当だと感じ、役員から提示があった時に断固として抗議しました。

しかし多くの先輩労働者たちは何も言わずにただうつむいているだけでした。

そのころから随分私は目を付けられたのだと思います。

その後、いろいろなことがあったので結局私はその会社を退職しましたが、労働組合の組合長にそのようなことを話して「一体どうしたものか。」と相談したところ、彼からは「会社の役員の皆さんはとてもいい方々でお人柄もいい方々なのでお願いすればわかってくださるんじゃないですか?頼んでみたらどうですか?」と。「おまえはアホか。」と私は一喝しました。

労働組合長が言う言葉か、それが。

とても馬鹿馬鹿しくなって私は電話を切り、会社を辞めたのを覚えています。

 

しかしあれから二十年近く経ちましたが、ますます日本では当時よりも状況は悪くなり、今では形だけ労働組合があってもほとんど使用者に対して対等に要求をするなどといった状況にはなっていないところが多いのではないかと思います。

もちろん労使間の交渉というのは、いきなり対立的になるのが決していいわけではありませんし、話し合いですめばそれはとても素晴らしいことです。

しかしながら先ほどの教科書にも書いてあるように一人一人の労働者がバラバラに交渉したのでは、圧倒的に労働者の立場が不利なので団結することが法で保障されているわけです。

いわば権利としてあるわけです。

 

私の別のブログ「権利の行使とそれにともなう自己責任」において、人権ないし基本的人権というのは刀のさやに入った日本刀のようなものだと述べましたが、まさしくその通りで、使わなければさやの中で錆びついたりしていくのではないかと思うのです。

 

まさに今、使わないままどんどん錆がまわってさやから抜くこともできなくなっているような状態ではないかと思うのです。

いろいろな基本的人権についてそういった傾向があるのではないかと危惧していますが、特にこの「労働者の権利」についてはそのような印象を強く持っています。

 

今の時代、どこで働いている人もみんなそれなりに苦しく少しでもいい条件で働きたいなぁと思っているのは間違いありません。

ならばお互い団結してそのことを交渉していって実現していくようなことは何も悪いわけではありません。

それは「権利」として認められていることなのです。

我儘でも何でもないのです。

しかし、どうも日本人とりわけ最近の日本人はこのようなことを全く怠っているように思えてなりません。

 

そして一方で「困った世の中だ。」「ブラックだ。ブラックだ。」と嘆いてばかりいるように思うのです。

なんと考えてみれば愚かなことでしょうか。

組合運動というのは、先ほどの教科書にもありましたように一人一人が弱いのでバラバラで交渉しているのではいけないので団結するということが本旨になっています。

裏切らずに団結して組合としてまとまって使用者と交渉するということです。

しかし日本人と言うのはどうも昔から、他のブログでも再三論じているように「お上」とか「ご主人様」とか「雇い主」とか、そういった類の人種に対してとても遠慮深く、弱くそして歯向かうよりは、「他の仲間が歯向かっても私だけは言うことを聞きますのでちょっと上の待遇にしてください。」とか、団結して使用者に立ち向かおうと言っていたのに「やっぱり僕はやめときます。」とか、そういったことがとても多いのです。

他の国民に比べても特に日本人はそこが弱いと言われています。

ですから「雇い主」の方もそのことをよくわかっているので、「スト破り」とか「組合分断」といったことを間断なく行ってきたわけです。

「お前だけは出世させてやるから、ストはやめておけよ。」「ストを企んでいるのは誰か言ってみろ。そうしたらお前の賃金だけはあげてやる。」とか、そういった具合です。

(近年、大阪府下で橋下知事の指示のもとあからさまに行われとても問題視されていることです。)

 

事実、私の父も京都に本社があるとあるバッテリー会社に勤めて管理職をしていましたが、私が中学生のころいわゆる「組合潰し」の活動をしていたのを知っています。

休日ごとに工場労働者の中から会社側に密通してくれる男を選び出して、自宅へ来させ、そして「今、どんな計画をしているのだ。」「主なスト決行に向けて企画をしている人物は誰か。」などといったことを密告させたり、そして「組合活動なんかやめといた方がいい。会社はわかってくれはるみたいだからやめとこうよ。」とか、そういった反組合的なオルグ活動をしてくれたら「お前を次、職長にしてやる。」と言うようなそういった裏工作をしていたのです。机に向かって勉強している私のすぐ横でです。

私は、とても薄汚い連中だなと思いました。

その男もそしてもちろん、自分の父親もです。

本当に自分が情けなくなりました。

こんな奴の息子なのかと。

 

けれども日本人というのは、みんなそういった弱さを持っているように思います。

もし、ストが今の時代、決行されるようなところがあれば、間違いなく「自分たちも苦しいけど忍従してブラックで働いているのに、なんであいつらだけあんなことをするんだ。あれはきっとアカだな。」とか「左翼だな。」とか、「迷惑をかける奴らだな。」と言ったそういった見方をする人が多いのではないでしょうか。

つまり、ストに対しての反感です。

 

こういった状況が社会に蔓延していると、ストライキ自体も上手くいきませんし、分裂やスト破りといったものも容易に起こってくることは想像できます。

使用者の方としてもその辺りをよくわかっていて、強気で臨んでくるはずなのです。

細かいストの規定やいろいろなことについては今この場で論じませんが、とにかく私が思うのは「スト」というのは団結が大事でそれを見守るような社会的環境がないとうまくいかないということです。

 

そういった意味で戦後しばらく大変な労働争議が盛り上がりを見せた時は、社会自体がそういった風潮だったのです。

いわゆる「2・1ゼネスト」前後の日本の状況です。

私が「2・1ゼネスト」のことを初めて知ったのは中学生のころでした。

それが日本の戦後にとって大きな分岐点だったのだということは、中学生ながらに強く感じました。これは労働者の抜本的な待遇改善を目指して全国の100万人単位の労働者が団結し、統一ストを行い、吉田内閣を打倒して労働者の政権を樹立するための闘いでした。

マッカーサーの強権的な指示により中止させられたのです。当時の委員長の伊井弥四郎が涙ながらの中止演説をしたというのは有名な話ですが、私はそのことが悔しくてなりませんでした。「伊井の腰抜け。馬鹿野郎。」「どうして命をかけてでもスト決行を叫ばなかったのか。根性なし。」と。

その日以来、この思いは今も変わっていません。もしあの「2・1ゼネスト」が決行されていたら、今のブラック社会も使い捨て労働もおきなかったのじゃないかと。日本人はあの日、大きな「宝物」をつかみ損ねたのだと思います。それは単に賃上げという経済的要求ではなくて、国民がこぞって団結すれば国民の力で国家を動かせるのだ、そして政治を変えられるのだという主体意識です。

そんな自覚と自信を持ち損ねたまま21世紀まで日本人は来てしまったのだと思うのです。

あの「2・1ゼネスト」の日以来。

 

そのような労働運動が高潮していたような時代にもう一回いきなり戻るとは思えませんが、もう少しせめてきちんと法定されているような権利を行使してまともに団体交渉し、そして決裂したならば「スト」に入るようなことぐらいが当たり前の行為として別に反社会的な行為でもないのですから、社会的に認知されるような雰囲気が出てこないといけないと思います。

 

今はとても「スト」など打ちにくい状況にこの社会があるのではないかと思うのです。

そんな中でもがんばって「スト」を決行しているところはあります。

労働戦線を再構築して戦おうとしている人たちはいるのです。

自分たち自身も苦しいのだから、段々と自分たちもそのようにして立場を改善していけるような運動をすればいいのに、自分はそれをやる勇気はないからそういった人たちを「あいつらはアカだね。」「我儘な奴だ。」「仕事もしないで迷惑をかける奴だ。」といったそういった見方をしているようでは社会は何もよくならないと思います。

今、いきなり一緒に戦うことはできなくてもまず反感からとりあえずは傍観する姿勢になり、傍観したところから次に共感できるように理解を深め、そして協調できる人間になり、最終的には共闘していく、こういった段階を我々は踏んでいかないといけないのだと思います。

 

例えばかつては私鉄の「スト」がよくありました。

今、もし私鉄やJRで「スト」が起きたら「何だ。困ったもんだ。通勤にも事欠くし。勝手に労働組合なんか作って、ストなんかやりやがって。ちゃんと電車動かせばいいのに。あんな奴らは反社会的だ。」と反感を持つ人が多いかもしれません。

しかしこれでは何も始まらないのです。

まず、自分たち自身も困るかもしれないけれどもそれを「あの人たちはがんばってストをしているのだから。今日は不便だけど我慢しよう。」とか、「代わりの何か交通手段を使って行こう。」とか、それに甘んじることがその人たちに協力する第一歩だと思って、反感を持たないように傍観できるか、まずこれです。

そして次に自分たち自身の会社が例えばビルの清掃会社をしているとか、自分たちがストをした時は逆にその時にストをしていた私鉄の職員の人たちがきっと私たちを暖かく見守ってくれるはずだ、「がんばれよ。」と応援してくれるはずだ、とお互いの会社の組合員がそんな風に思い合えるような世の中になれば「スト」はうまくいくはずなのです。

(そもそもいきなりストが起こるわけではないのです。いくら交渉しても満足できる回答や誠意ある返答を使用者がしないのでストに突入するわけです。もしストが起きてあなたに迷惑が及んだとしたらその原因は、まずその会社経営者にあるのです。この辺りをまず理解しておくことです。)

 

第二次世界大戦の直前にヒットラーの侵攻を懸念したフランスの政府は独仏国境付近にマジノラインという要塞の防御線を建造していました。

国防のためのとても大事な作戦だったのです。

しかしそのマジノラインの建設は、建設作業員の労働条件の問題で労働争議が起き、建設が長引いたので開戦に間に合わず未完成のまま開戦を迎え、フランスはあえなく大敗を喫したということがあります。

今の日本の感覚で言えば「なんと非国民な連中だ。」「それこそ反日だ。」「処刑すれば」などということになるのかもしれませんが、私は思いました。「やっぱりフランス革命の国。人権宣言の国は違うんだな。」と。

国防の問題はまた別論としてもそれほどまでに徹底しなくとも日本人も少しは「スト」が決行できるような社会を実現していかなければいつまでも「ブラック」は終わりません。

 

労働組合運動とかストと言うのは何も共産党とか共産主義の専売特許ではないのです。

ごく当たり前に働くものすべてができることですし、また時にはやらねばならないことなのです。

憲法第二十八条で「労働者の団結する権利および団体交渉その他の団体行動をする権利はこれを保障する。」ときちんと明記されているのです。

 

今日はあの「2・1ゼネスト」の日から72年目の2月1日です。

伊井弥四郎の馬鹿野郎。

 

安倍政権の目指すものとは?

 

これからこの国はどんな風になっていくのか?

どんな国家体制になっていくのか?

どんな政治になっていくのか?

 

とても不安だなと言う人もいます。考えてみなければなりません。

歴史の先例というものから学んで予測しなければならないと最近思うのです。

一体、安倍政権というのはこれからどんな風になっていくのか、果たして何を目指しているのか、前回も言ったように日本人は一体何を望んでしまっているのか、考えると暗たんたる気持ちになることもありますが歴史を少し考えてみると素人ながらに思い当たる節がいくつかあります。

それはアジアの三人の政治家です。

 

一人は朴軍事政権の朴(パク・チョンヒ)大統領。大疑獄事件で少し前に逮捕されたパク・クネ大統領の父親です。

もう一人はフィリピンのマルコス大統領。

そしてインドネシアスハルト大統領です。

 

朴大統領については軍事政権と言われたぐらいで軍隊の存在を前面に押し出して強権的な独裁的政治を行い、民主化のリーダーと言われた政敵であった金大中氏を秘密警察(KCIA)を使って日本から拉致・連行、監禁し世界中を震え上がらせました。

 

フィリピンのマルコス大統領と言えば戒厳令を布告し、20年近くの間強権的な政権運営を行うとともに「クローニー(縁故・取り巻き)資本主義」を実践し、利権の独占化を進めました。マラカニアン王宮はまさしく彼の宮殿とも言うべきで何千足も靴を持っていたという妻のイメルダが有名なことからもわかるように公私混同な国家費用を私財に投じ、贅沢三昧をしていたような王政ぶり。

 

インドネシアスハルト大統領は極めて親日家であり、今でも熟年層は良い印象を持っている人が多いと思います。しかし内面の顔は全く裏腹で数十万人から百万人とも言われる反政府主義者を次々と処刑し、「ソロ川の水が日々赤く染まった。」と言われていたことは有名です。また東チモールに対する血みどろの抑圧、その末での東チモールの独立ということがあったのは世界中で知られていることです。大変な強圧家だったわけです。(日本ではこういった彼の素顔はほとんど知られていません。共産主義政権であったカンボジアポル・ポトの虐殺が映画「キリング・フィールド」などとともに強くプロパガンダされて多くの日本人に印象づけられているのとあまりに対照的です。)

 

安倍政権を今、考えてみると前回も述べたように極めて情報操作というものに対して熱心であり、反政府的・反政権的な言論というものを共謀罪の新設など様々な手法で抑圧しよう、監視しようとしていること、また過去最大と言われている防衛費というものを計上し自衛隊を前面に押し出していこうという傾向、これはまさしく朴氏に類似しています。

また乱痴気騒ぎで有名な昭恵夫人の行状、国費で賄われている女性秘書を何人も使って豪遊しているなどといったこと。マルコスを思い起こさせます。

また強権的な手法で沖縄に対して抑圧的な政策を行っていることもスハルトまがいと言えます。

京産大をコケにして友人の経営する加計学園に特に恩典的な獣医学部開設を認可するなど「クローニー姿勢」が強くにじみ出ているのも上記の三人と共通しています。

 

こういったことから考えると、朴・マルコス・スハルト路線というものが浮かび上がってくるわけです。どうも長期安定政権で栄誉・栄華を極めた彼らに安倍氏は憧れているのではないかと思われるのです。この三人はいわゆる議会制民主主義というものを堅持し、「うちは民主主義国家である。」「自由主義国家である。」と標ぼうしてきたのです。

だから決して中華人民共和国北朝鮮のような「独裁国」ではなく「民主主義国家」の代表なのだと世界に対して言ってきたのですが、内政の実情は先ほど記した通りです。

 

しかし彼らと安倍氏が決定的に違うところがあります。

それは安倍氏は総理大臣であり、彼らは大統領であったということです。

安倍氏は間違いなく「大統領」になりたいのだと思うのです。

そのために内閣府を大統領府のような機能を持たせて肥大化させてきているではありませんか。

彼が目指しているのは間違いなく実質的な大統領制だと思うのです。

そのことによる権力集中と独裁化だと思われるのです。

その上で大きな一つのネックがあります。

それは何かと言うと、「大統領制」と「王制」は両立しないということです。

これは世界史における絶対的な原則なのです。

総理大臣と言うのは「王様」「大君」に使える臣下の中のヘッド・リーダーという意味。だから「総理大臣」なのです。大臣の中のリーダーに過ぎないのです。

ということになると大統領になるために日本では大変厄介なたんこぶがあります。

天皇制」というものです。

天皇制」があるからこそ日本は「立憲君主国」であるし「立憲議会制民主国」なのです。

しかし「天皇」という例え象徴的であれ「国王」がいる限り、決して「大統領」というものが生まれることはできないのです。

そこが彼のジレンマなのです。

だから彼は近年皆さんもご存知のように大変、皇室というものに対して冷淡です。

そして今の安倍氏の臣下である宮内庁もまた皇室にお仕えする身でありながら皇族方に対して大変ご無礼なことを次々と行っているのです。

「ははぁ。そうか。」と合点がいくところです。

彼はとにかく「天皇」の存在というものが厄介で仕方ないのです。

大統領制」にするためには「王制」というものは絶対に廃止しなければならないのです。

彼の大きなジレンマなのです。

皇室の方々もそのことをわかっているからこそ最近彼の行き過ぎたやり方に対して秋篠宮様が「国費で大きな支出を行って大嘗祭を行うのはいかがなものか。」と苦言を呈されて、「宮内庁聞く耳持たず残念。」と言った発言をされたり、また「平成天皇」も最後の記者会見に於て直接的に批判的なことは仰いませんでしたが、「沖縄の人たちの苦しみを決して忘れてはならぬ。」と言った辺野古をけん制するようなご発言や以前にも「朝鮮半島の問題については一回謝ったから済む問題ではない。」と言った趣旨のことを発言されたり、今の政権の強権的な政策に対してそれを諫めるようなお言葉を繰り返しておられます。

こういったことが安倍氏にとってみると厄介でうっとうしくて仕方ないのでしょう。

だから「天皇はただ祈っていればいい。」などという旨の発言をしたり、また彼の臣下のスピーカーとも言えるようなネトウヨは「皇后は反日だね。」などという意味不明なことを吹聴したりしているのです。

誠に困ったことです。

 

日本は果たして「大統領制」になるのでしょうか?

かの三人のアジアの先輩大統領達が極端なまでに親米派だったことも安倍氏と共通していますし、長期政権において強大な利権の固定化、既得権化というものが進んでその中で腐敗が進むことも共通していくのかもしれません。

そうなればとても困った事態です。安倍二十年政権???
上記の三つのアジアの国では人々は強権的な政権を倒し、民主政治を実現するために多くの犠牲を払い血を流したのです。それでも勇敢に戦い、自由を勝ち取ったのです。

その時にそんな勇気と力を日本人はこの国民は持てるのかどうか極めて不安に思えてなりません。

いったんそういった仕組みができてしまうと打破するのはとても困難なことです。

今からよく考えて我々は手を打っていかなければならないのです。

                 201812

安倍政権の人気の秘密

 

まもなく2019年を迎えようとしています。平成の終わりの年だそうです。

皆さんの周りには希望があふれていますか?楽しい一年でしたか?

来年に向けていいことが起こりそうでしょうか?だといいですね。

 

でも一般的にこの世の中を見てみると、相変わらずブラック労働とか、いくら働いても残業代をもらえない、

「働かないと食べていけない。私、子育てしているシングルマザーなのに。子どもを入れようと思っても保育園にも入れられない。そのことをちょっと訴えたら世間からたたかれる。」など・・・

国保税が年収の1/10以上になってそれだけで病気になりそう。」

「ガソリンちょっと一世代前、お父さんの若い頃は70円か80円ぐらいだったのに今はどうしてその倍もするの。聞いてみたら1リットル150円のうち、半分ぐらいの70何円かは税金なんだって。」とか一般に「逆進性」という言葉で表現されているように懸命に働いている勤労者層にかえって過酷で一方で資産運用など指一本動かさなくてもお金の入って来る仕組みを持っている富裕層に配慮した政策が次々と繰り出されています。

 

台風、地震原発事故後の放射能。いろいろな災害があるのに十分な手当てもされないまま期限が来れば「もう知りません。」と放置されたまま。そういった被災地も多いのです。

未だに手をつけられてないままのところもあります。(和歌山にある畔も飛び谷川の護岸が崩壊したままの私の水田もその一つです。)

それなのに一方で再来年には大規模なオリンピックが東京で催され更に万博もやると、そしてこの地元滋賀でもバブル国体というべき大予算の国体を行うということが報じられています。

「破産するんじゃないの?この国は。」と言う人も多いです。

でもなぜかそちらへ突き進んでいく。そういったことを標榜して推し進めていこうとする安倍内閣・安倍政権を引きずり降ろそうという気配はこの国にありません。

なぜでしょう?

 

今まで歴代の総理大臣には様々な特徴があったと思います。

「人間ブルドーザー」と言われ辣腕さと実現力とバイタリティーでならした田中角栄

冷静さと分析力、長々とした演説でプロフェッサーと言われた福田赳夫など歴代の自民党保守系の総理にもいろいろな特色があったと思います。

今の安倍晋三の特色、彼に特化しているものとは一体何なのでしょうか?

外交力があるわけでもなく経済政策はアベノミクスなどと言っていますが何の成果があったのか一般庶民にとっては何の実感もなく。

でも彼が歴代の総理大臣の中で特に特化しているものがあります。

それは何かと言うと、とにかく自分の評判を気にして悪口が出ないかということを細かく細かく調べてそれに対して反論することです。

そしていろんなことを大したことでもないのにそれが何だということを、いかにもさもありなんとばかりに大した成果をあげたようにアピールしていくことです。

そしていろいろな大変な問題があるのにそれをいかに上手く隠蔽していくかということです。

つまり一言で言えば「困った現状を見えなくしてくれる。」ことです。

これについては彼はとても天才的だと思います。

それ故に現政権やその取り巻きは日本の問題点をずばりえぐり出したような「万引き家族」に対してはいくらそれが世界で映画作品として不動の評価を得ようとも無視しできれば抹殺したいと思っているのです。

 

今の日本は考えてみれば経済も沈滞し、かつては「Japan as No.1」などと礼賛されたようにアジアの中でのNo.1と言えば日本であったことは間違いありませんが、今では「アジアの盟主は誰ですか?」と聞かれたら世界中の人が間違いなく「中国」という時代になりました。

技術と言う面をとってもいわゆるスマホといったものを買おうとしても「サムスンのはありませんがパナソニックのでもいいですか?」と日本の販売員自体が申し訳なさそうに言う時代になりました。

次々と発覚するスバル・シャープ・三菱自動車など大企業の不正隠し、世界的な日本の技術の信頼の失墜、この国の財政の累積赤字はとうに百兆円を超えているのです。

国民一人に対し65万円の借金をオギャーと生まれた子どもからご臨終間際の老人までしているようなものだという話が十年以上前にありましたが、今では実質さらに拡大しているのかもしれません。

株価というものを何とか支えながらまた落ちてまた少し上がってということを繰り返していますが、日銀が大量に株を買い支えているという現状は少なからず皆さんもご存じだろうと思います。

つまりやらせで今の経済を何とか上辺だけ高値のようにしているだけで実はポンと押せば倒れてしまうような床下が割りばしで支えられているような大豪邸のようなものなのです。

なんと恐ろしいことでしょうか。

いつその崩壊がやってくるのでしょう。

 

でもこういったことすべてを「大丈夫なんだ。」「経済は伸びているんだ。」などということをGNPの数値操作だけを行って示したり、「この国はまだまだやれるんだ。」(「シン・ゴジラ」に出てきたセリフですよね。)とか「希望のある国だからオリンピックができるんだ。」などということを言ったり、とにかく今の政権というのは都合の悪いことをひたすら国民に見せないで「大丈夫だから」「大丈夫だから」と言うことにかけては天才的だと思います。

でもこれは彼一人が悪いのではなくて私が思うのはどうも今の日本人が「これからどうしていったらいいのかわからない。」「どう変わっていったらいいのかわからない。」「でも今まで日本は頑張ってやってきた。昭和の時代は良かった。」「日本は中国よりすごい筈だ。韓国よりすごい筈だ。」「アメリカも日本がアメリカ以外ではNo.1だと思ってくれてた筈だ。」という幻想を、結構若い世代まで捨てられないでいるからなのでしょう。

そんな日本人のこれからの日本の未来に向かっての困った面やはっきりした現状というのを見たくない「逃げの心理」というものをうまくとらえて、そして「大丈夫だよ。日本は大丈夫なんだ。いい国なんだ。」という幻想を持たせてくれるのが今の総理大臣なのでしょう。

だから安倍内閣を日本人は引きずり下ろすことがないのだと思います。

 

しかしながらよく例えであるように破産しかけている破滅家族はバカ騒ぎのパーティーのようなことを何度も繰り返したり豪華な旅行を目先に繰り返してそのあげくに全員家族で首をつって自殺したとか一家が離散したとかそういったことは実話やまたいろんなドラマでも示されている通りです。

破滅家族には派手なパーティーが必要なのです。それが必須なのです。そうでないとやっていられないのです。そこに目を向けて「さぁそのパーティーに向けて準備をしよう。」「パーティーに向けて買い物をしよう。」「家の中も片づけてきれいにしてみんなを招かないと。」そういった狂騒曲をやることによってその後ろにあるみすみすわかっているような重大な局面から目をそらそうとしているのです。それがオリンピックであり万博だと思うのです。

その後に何が待っているのか。考えてみれば恐ろしいことです。

莫大な経費負担。それを間違いなく国民に転嫁してくることでしょう。もう「貯金」はない国なのですから。

一体、経済にどのような破綻が起きるのか。どのようなひづみが起きるのかわかったものではありません。(更に輪をかけて首都圏直下型大地震などということも以前から指摘されている通りです。)

 

福島の問題にしてもそうです。

甲状腺ガンの多発。いろいろな疾患というものが確実に増加しているのに「アンダーコントロール。元気にサッカーボールを蹴っています。」などと言ってオリンピックを誘致し、更には福島産のものを殊更に子どもたちに食べさせようなどとまさに子どもたちを「生贄」にしてでも「この国は大丈夫。」だということを国民に示そうということなのです。

 

破滅が迫っている危機家族の駄目なお父さんがやるもう一つの手法は、とにかくご近所の悪口・周りの悪口を言ってそちらに目を向けさせることです。

ほんのちょっと、隣のお家がゴミを出す時に自分のお家の前を汚したとか、そういうことについて難癖をつけ大きく文句を言い、「〇〇さんは困ったもんだ。いつもあの調子だ。」「あの人は行儀悪いんだ。ああいう人間性だから。あれが十八番なんだ。」こういったことばかりを言う。

そして逆に昔本当に都合悪いことがあっても、例えば「自分のところのひいおじいさんが〇〇さんのところの奥さんにちょっかいを出して大騒ぎになった。」というようなことをきちんと解決しないまま今まで続いているにも関わらず「いや。そんなことはうちのじいさんはしていない。していないはずなんだ。なのにそういう因縁をつけてくる嫌らしい家なんだ。」というようなことを言ってそれをネタに逆切れしてさらにその家の悪口を家族に何度も吹き込んでいく。

とにかく他人の悪口です。

 

目先の乱痴気パーティーと周りの悪口。

はっきり今の日本に当てはまることです。

後者の代表がいわゆる「ネトウヨ言論」というものです。

ネトウヨ」の実態というのはどうも若手の引きこもりじゃないかと思っていた人が多いのですが、最近の詳細な調査では実は50歳代を中心とした自営業者の小金持ちのいわゆる「町の社長さん」が多いというのです。なんと困ったことでしょうか。

仮にも人の上に立ち、分別のある振る舞いをしなければならないような人たちがこの有様というのは。

実際このようなネット上での言論を行っている個人がいくらかは存在するのだと思います。

でも私が強く持っている疑惑は、この「ネトウヨ」というのはそもそもは「官製品」ではないかということです。

初めにその手の部署のお役人さんが頑張ってスターターキャラクターを生み出し、それに阿寒湖のマリモが大きくなるように周りに付和雷同して似たようなことを言いだす輩がはりついて増殖してきたのではないかと思うのです。私はちょっと前にネット上で数十人もの人たちがパソコンを並べてひたすらそれをのぞきこんでいる情景の投稿を見たことがあります。そしてその投稿には「みな、この人たちは公務員。反政権的な記事をチェックしそれに反論的なコメントをつけていくのが仕事。自分もその一員だったけど。」とありました。この投稿の真偽のほどはよくわかりませんが、実際に内閣府に大量の人員を配置して日々ネット上に反政権的な言論がないかを巨額の国費をかけてこつこつとチェックしているというのは十分やっていそうな所業だなという印象は拭えません。

森友・加計問題、辺野古南スーダン自衛隊日報問題など政権にとって不都合なことを指摘するネット上の投稿がすぐさま削除されていることを頻繁に見かけます。

SNSの運営主体が全く政権の思うがままにコントロールされていて情報統制がなされている様は現政権の労作と言えます。

 

まぁそれはさておき本当に困った世の中です。

「メッセージ」に惑わされず「事実」を直視していかねばなりません。

そして破滅家族になってしまわないようにみんな勇気を持って、実際この国はどうあるべきかを考えていかなければなりません。

そして本当に駄目だと思ったらそんなお父さんに勇気を持って言わねばなりません。

「本当にこのままでいいの?もう私たちを騙さないで。」と。

 

                   201812