ストの出来る社会に

 

 

かつて私が大学生の頃ぐらいまではよく「スト」「ストライキ」というものを町で見かけましたが、最近全く見かけなくなりました。

 

中学校の「公民」の教科書を開けてみると「労働者の権利」というところで「資本主義経済では労働力も一つの商品として売買されている。」と、「労働者は雇い主である使用者に労働力を提供し、その見返りとして賃金を受け取ることになっているけれども労働者は使用者に対して弱い立場にあるので一人一人がばらばらに交渉したのでは不利な条件になりがちである。そのため労働者は労働組合を結成し、労働条件の改善を使用者に要求するようになった。」と。

「国も労働組合を結成したり、また労働争議を行ったりすることを権利として認め法律で保障している。」

日本では労働三法と呼ばれている労働基準法労働組合法・労働関係調整法が存在する。

という風に解説されています。

 

でも最近はブラックとか1か月休みなしとか一日16時間働かされたとか何時間働いても全く残業代はもらえないとかそういったとんでもないことが横行しているわけで労働組合を作って団結してストをするなどまるで雲の上の話のような感じを持っている労働者も多いのではないかと思います。

 

労働組合を結成することは国民の権利であり、労働組合を結成しないことを要求したり労働組合に入らないことを条件としていろいろな恩典を与えたりすることは、不当労働行為として違法なことです。

これは現行の労働法によって規定されていることなのです。

しかしながら私の周りを見てみると、労働組合労働組合らしい活動をしているような企業というのは最近全く見かけません。

特に私の住んでいる辺りではその通りなのです。

 

かつて私もサラリーマンだったころ、自分の勤めていた英会話学校で人事規定の改悪が提示され、私はとてもそれを不当だと感じ、役員から提示があった時に断固として抗議しました。

しかし多くの先輩労働者たちは何も言わずにただうつむいているだけでした。

そのころから随分私は目を付けられたのだと思います。

その後、いろいろなことがあったので結局私はその会社を退職しましたが、労働組合の組合長にそのようなことを話して「一体どうしたものか。」と相談したところ、彼からは「会社の役員の皆さんはとてもいい方々でお人柄もいい方々なのでお願いすればわかってくださるんじゃないですか?頼んでみたらどうですか?」と。「おまえはアホか。」と私は一喝しました。

労働組合長が言う言葉か、それが。

とても馬鹿馬鹿しくなって私は電話を切り、会社を辞めたのを覚えています。

 

しかしあれから二十年近く経ちましたが、ますます日本では当時よりも状況は悪くなり、今では形だけ労働組合があってもほとんど使用者に対して対等に要求をするなどといった状況にはなっていないところが多いのではないかと思います。

もちろん労使間の交渉というのは、いきなり対立的になるのが決していいわけではありませんし、話し合いですめばそれはとても素晴らしいことです。

しかしながら先ほどの教科書にも書いてあるように一人一人の労働者がバラバラに交渉したのでは、圧倒的に労働者の立場が不利なので団結することが法で保障されているわけです。

いわば権利としてあるわけです。

 

私の別のブログ「権利の行使とそれにともなう自己責任」において、人権ないし基本的人権というのは刀のさやに入った日本刀のようなものだと述べましたが、まさしくその通りで、使わなければさやの中で錆びついたりしていくのではないかと思うのです。

 

まさに今、使わないままどんどん錆がまわってさやから抜くこともできなくなっているような状態ではないかと思うのです。

いろいろな基本的人権についてそういった傾向があるのではないかと危惧していますが、特にこの「労働者の権利」についてはそのような印象を強く持っています。

 

今の時代、どこで働いている人もみんなそれなりに苦しく少しでもいい条件で働きたいなぁと思っているのは間違いありません。

ならばお互い団結してそのことを交渉していって実現していくようなことは何も悪いわけではありません。

それは「権利」として認められていることなのです。

我儘でも何でもないのです。

しかし、どうも日本人とりわけ最近の日本人はこのようなことを全く怠っているように思えてなりません。

 

そして一方で「困った世の中だ。」「ブラックだ。ブラックだ。」と嘆いてばかりいるように思うのです。

なんと考えてみれば愚かなことでしょうか。

組合運動というのは、先ほどの教科書にもありましたように一人一人が弱いのでバラバラで交渉しているのではいけないので団結するということが本旨になっています。

裏切らずに団結して組合としてまとまって使用者と交渉するということです。

しかし日本人と言うのはどうも昔から、他のブログでも再三論じているように「お上」とか「ご主人様」とか「雇い主」とか、そういった類の人種に対してとても遠慮深く、弱くそして歯向かうよりは、「他の仲間が歯向かっても私だけは言うことを聞きますのでちょっと上の待遇にしてください。」とか、団結して使用者に立ち向かおうと言っていたのに「やっぱり僕はやめときます。」とか、そういったことがとても多いのです。

他の国民に比べても特に日本人はそこが弱いと言われています。

ですから「雇い主」の方もそのことをよくわかっているので、「スト破り」とか「組合分断」といったことを間断なく行ってきたわけです。

「お前だけは出世させてやるから、ストはやめておけよ。」「ストを企んでいるのは誰か言ってみろ。そうしたらお前の賃金だけはあげてやる。」とか、そういった具合です。

(近年、大阪府下で橋下知事の指示のもとあからさまに行われとても問題視されていることです。)

 

事実、私の父も京都に本社があるとあるバッテリー会社に勤めて管理職をしていましたが、私が中学生のころいわゆる「組合潰し」の活動をしていたのを知っています。

休日ごとに工場労働者の中から会社側に密通してくれる男を選び出して、自宅へ来させ、そして「今、どんな計画をしているのだ。」「主なスト決行に向けて企画をしている人物は誰か。」などといったことを密告させたり、そして「組合活動なんかやめといた方がいい。会社はわかってくれはるみたいだからやめとこうよ。」とか、そういった反組合的なオルグ活動をしてくれたら「お前を次、職長にしてやる。」と言うようなそういった裏工作をしていたのです。机に向かって勉強している私のすぐ横でです。

私は、とても薄汚い連中だなと思いました。

その男もそしてもちろん、自分の父親もです。

本当に自分が情けなくなりました。

こんな奴の息子なのかと。

 

けれども日本人というのは、みんなそういった弱さを持っているように思います。

もし、ストが今の時代、決行されるようなところがあれば、間違いなく「自分たちも苦しいけど忍従してブラックで働いているのに、なんであいつらだけあんなことをするんだ。あれはきっとアカだな。」とか「左翼だな。」とか、「迷惑をかける奴らだな。」と言ったそういった見方をする人が多いのではないでしょうか。

つまり、ストに対しての反感です。

 

こういった状況が社会に蔓延していると、ストライキ自体も上手くいきませんし、分裂やスト破りといったものも容易に起こってくることは想像できます。

使用者の方としてもその辺りをよくわかっていて、強気で臨んでくるはずなのです。

細かいストの規定やいろいろなことについては今この場で論じませんが、とにかく私が思うのは「スト」というのは団結が大事でそれを見守るような社会的環境がないとうまくいかないということです。

 

そういった意味で戦後しばらく大変な労働争議が盛り上がりを見せた時は、社会自体がそういった風潮だったのです。

いわゆる「2・1ゼネスト」前後の日本の状況です。

私が「2・1ゼネスト」のことを初めて知ったのは中学生のころでした。

それが日本の戦後にとって大きな分岐点だったのだということは、中学生ながらに強く感じました。これは労働者の抜本的な待遇改善を目指して全国の100万人単位の労働者が団結し、統一ストを行い、吉田内閣を打倒して労働者の政権を樹立するための闘いでした。

マッカーサーの強権的な指示により中止させられたのです。当時の委員長の伊井弥四郎が涙ながらの中止演説をしたというのは有名な話ですが、私はそのことが悔しくてなりませんでした。「伊井の腰抜け。馬鹿野郎。」「どうして命をかけてでもスト決行を叫ばなかったのか。根性なし。」と。

その日以来、この思いは今も変わっていません。もしあの「2・1ゼネスト」が決行されていたら、今のブラック社会も使い捨て労働もおきなかったのじゃないかと。日本人はあの日、大きな「宝物」をつかみ損ねたのだと思います。それは単に賃上げという経済的要求ではなくて、国民がこぞって団結すれば国民の力で国家を動かせるのだ、そして政治を変えられるのだという主体意識です。

そんな自覚と自信を持ち損ねたまま21世紀まで日本人は来てしまったのだと思うのです。

あの「2・1ゼネスト」の日以来。

 

そのような労働運動が高潮していたような時代にもう一回いきなり戻るとは思えませんが、もう少しせめてきちんと法定されているような権利を行使してまともに団体交渉し、そして決裂したならば「スト」に入るようなことぐらいが当たり前の行為として別に反社会的な行為でもないのですから、社会的に認知されるような雰囲気が出てこないといけないと思います。

 

今はとても「スト」など打ちにくい状況にこの社会があるのではないかと思うのです。

そんな中でもがんばって「スト」を決行しているところはあります。

労働戦線を再構築して戦おうとしている人たちはいるのです。

自分たち自身も苦しいのだから、段々と自分たちもそのようにして立場を改善していけるような運動をすればいいのに、自分はそれをやる勇気はないからそういった人たちを「あいつらはアカだね。」「我儘な奴だ。」「仕事もしないで迷惑をかける奴だ。」といったそういった見方をしているようでは社会は何もよくならないと思います。

今、いきなり一緒に戦うことはできなくてもまず反感からとりあえずは傍観する姿勢になり、傍観したところから次に共感できるように理解を深め、そして協調できる人間になり、最終的には共闘していく、こういった段階を我々は踏んでいかないといけないのだと思います。

 

例えばかつては私鉄の「スト」がよくありました。

今、もし私鉄やJRで「スト」が起きたら「何だ。困ったもんだ。通勤にも事欠くし。勝手に労働組合なんか作って、ストなんかやりやがって。ちゃんと電車動かせばいいのに。あんな奴らは反社会的だ。」と反感を持つ人が多いかもしれません。

しかしこれでは何も始まらないのです。

まず、自分たち自身も困るかもしれないけれどもそれを「あの人たちはがんばってストをしているのだから。今日は不便だけど我慢しよう。」とか、「代わりの何か交通手段を使って行こう。」とか、それに甘んじることがその人たちに協力する第一歩だと思って、反感を持たないように傍観できるか、まずこれです。

そして次に自分たち自身の会社が例えばビルの清掃会社をしているとか、自分たちがストをした時は逆にその時にストをしていた私鉄の職員の人たちがきっと私たちを暖かく見守ってくれるはずだ、「がんばれよ。」と応援してくれるはずだ、とお互いの会社の組合員がそんな風に思い合えるような世の中になれば「スト」はうまくいくはずなのです。

(そもそもいきなりストが起こるわけではないのです。いくら交渉しても満足できる回答や誠意ある返答を使用者がしないのでストに突入するわけです。もしストが起きてあなたに迷惑が及んだとしたらその原因は、まずその会社経営者にあるのです。この辺りをまず理解しておくことです。)

 

第二次世界大戦の直前にヒットラーの侵攻を懸念したフランスの政府は独仏国境付近にマジノラインという要塞の防御線を建造していました。

国防のためのとても大事な作戦だったのです。

しかしそのマジノラインの建設は、建設作業員の労働条件の問題で労働争議が起き、建設が長引いたので開戦に間に合わず未完成のまま開戦を迎え、フランスはあえなく大敗を喫したということがあります。

今の日本の感覚で言えば「なんと非国民な連中だ。」「それこそ反日だ。」「処刑すれば」などということになるのかもしれませんが、私は思いました。「やっぱりフランス革命の国。人権宣言の国は違うんだな。」と。

国防の問題はまた別論としてもそれほどまでに徹底しなくとも日本人も少しは「スト」が決行できるような社会を実現していかなければいつまでも「ブラック」は終わりません。

 

労働組合運動とかストと言うのは何も共産党とか共産主義の専売特許ではないのです。

ごく当たり前に働くものすべてができることですし、また時にはやらねばならないことなのです。

憲法第二十八条で「労働者の団結する権利および団体交渉その他の団体行動をする権利はこれを保障する。」ときちんと明記されているのです。

 

今日はあの「2・1ゼネスト」の日から72年目の2月1日です。

伊井弥四郎の馬鹿野郎。